第17話 特別な日。老舗うなぎ屋の二階建て (後編)
「茶が美味いな」
「んー。よく分かんねぇ」
ずずずっと湯飲みを口に当てながら、俺はぼうっと店内の壁を眺めた。壁には、いくつかの単品メニュー。天麩羅なんかもやっているらしい。
うなぎ関係のメニューといえば蒲焼きだが。俺は小さい頃初めてうなぎ屋に連れてきて貰ったときに驚いたものだ。
かばやき。達筆な字だが、小学生の俺にも何とか読めた。そして、叫んだのだ。「母さん! ここの店カバ食べれるって!」……恥ずかしい記憶だ。今でもたまに母にからかわれる。
「……お前、カバって食ったことあるか?」
「えっ? いや、ないけど」
リリスが、何言ってんだという顔で俺を見つめ返す。俺は、そうかと一言呟いて再び湯飲みを持ち上げた。
ずずず。カバってどんな味がするんだろう。あの日の素朴な疑問は、今もなお俺の心に残っている。
そういえば、東京の方は鰻の捌き方が違うらしい。関西は腹から開くが、東京は背中から。どうも切腹を連想させ、縁起が悪いとのこと。
……そんなの、どうでもいいのに。俺は、変なとこで江戸っ子って神経質だよなと茶を啜る。武士に腹開きの鰻を出したら、どうなるんだろう。打ち首獄門なのだろうか。
「はい。二階建てね。二つね」
遠き日の情景に思いを馳せていると、俺たちのテーブルに爺様が丼を二つ持ってきた。料理を運ぶのは爺様らしい。
「おっ。来た来た。よし、食うぞ」
「おおー。なんだこれ」
リリスも、爺様から大きな丼を受け取る。俺は手にずっしりとくるその重みにうんうんと頷いた。普通のうな丼とは別の、大きめの丼。これだよこれと、俺はその丼をテーブルに優しく下ろす。
「こりゃなんだ? 魚か?」
「うなぎという魚だ。まぁ、日本以外だとあんまり食べないかもな」
茶色いタレが照り光るうなぎの身に、リリスがきょとんと目を丸くする。フランスやイギリスでも食べるらしいが、俺は日本のうな丼が一番好きだ。イギリスのゼリー寄せについては、まぁノーコメントを貫こう。
「いい匂いだな。腹がうまそうっ」
「だろう。この匂いが。……あぁ」
たまらん。すぅっと、俺はうな丼に鼻を近づけた。先ほどから店内に充満していた香りだが、こう目前にするとより強烈だ。
香ばしい香り。文字通りじゃないか。香る。鼻の細胞が、直接胃を刺激するようだ。
「我慢できん。食うぞ」
「あっ、あたしも」
ぱきんと割り箸を割り、俺はぐわしとうなぎに向かって箸を突き立てた。とたん、ぱりっとした表面が破れ、ふんわりとした感触が指先に伝わる。
柔らかい。ふっくらという表現がぴったりだ。俺は、その身と白い飯を同時に口の中に放り込んだ。
「……ふ、ふふ」
更にもう一口。ぱくりと口に入れる。
白い飯と言ったが、語弊があった。この、白い飯にかかったタレ。そしてうなぎ。最高だ。これ以上よけいなものなんて要らない。
もぐもぐ。口を動かす。ふっくら。そしてふんわり。
「うめぇっ!!」
一言叫ぶと、リリスは豪快に食べ出した。それでいい。がっついていい。丼なんだから。
俺もがつがつと鰻と飯をかっ喰らっていく。贅沢だ。なんという贅沢。
鰻は、食べてしまってもいい。俺は安心して、飯の上の鰻を贅沢に喰らっていく。甘辛いタレ。照り焼き味とも違う、「うなぎのタレ」だ。これは、やはり鰻が一番美味くなる。
塩でとか、白焼きとか。分かる。言いたくなる気持ちは分かる。だが、あえて言おう。タレだ。タレでこう、白い飯ごと。この、米に付いたタレ。ほら、タレじゃないと。うな丼は、タレ。決まりだ。
「……なんか出てきたっ!?」
うまいうまいとがっついていたリリスの手が、ぴたりと止まる。それににやりと俺は笑って、一呼吸置こうと茶を一口飲んだ。
「それが二階建てだ。どうだ」
「す、すげぇ……」
最強だと、リリスはきらきらした瞳で丼の米をそっとどかした。その下から現れる、茶色い表面。
二重構造。うなぎの二層丼こそ、二階建てと呼ばれる所以である。
「ああ、まだ鰻が。たまらんなこれは」
こんな贅沢な飯があっていいのだろうか。鰻を食い尽くし、米も食ってしまったその先に、更にうなぎ。もう、凄い。色々と凄い。
「これを考えた奴は天才だな」
箸を二層目に入れる。ほろりと、鰻の身が崩れた。
牛丼でもカツ丼でも天丼でも、海鮮丼でもこうはいかない。炊き立ての米で挟むという行為は、中々に過激だ。うなぎ。鰻だからいいのだ。
「美味い。……くぅ、ここにしてよかった」
昔の人の言うことは聞くものだ。良いことがあった日は二階建て。これを最初に言った人も天才だ。この街に住んでいてよかった。
鰻。最近、めっきり食いづらくなった。この店も、何十年もしてこなかった値上げを余儀なくされている。
昔は、もう少し気軽に食べられた。ご馳走には違いないが、それでも庶民の暮らしにきちんと根付いた食べ物であった気がする。
「味わって食えよ」
「いや、あんたの方がガツガツ食ってたよ」
リリスに言われ、それがどうしたと俺は二層目を食べ崩していく。こういうものは、豪快に食わないといかん。何となく、美味しさが逃げていってしまう気がする。
「……美味いな」
「うん。すごくうめぇ」
ぱくぱくと嬉しそうに食べるリリスを見て、俺はくすりと笑ってしまった。
老舗のうなぎ屋に、ゴスロリの悪魔。
何だこの状況はと、俺は最後の鰻の身を箸でほぐす。
ーー ーー ーー
「ふぅ。……食った」
げふぅ。思わず腹をさする。畳だからか、寝ころびたい気分だが流石にそれは我慢だ。
何となく、幸せとはこういうことを言うんだなと思う。腹が満ちている。それも美味いもので。うーむ。これ以上はない。
「……今日はいい日だった」
ぽつりと呟く。忘れていたが、今日の飯は自分へのご褒美だった。そんなことも忘れるくらい、俺はうな丼に没頭していたらしい。
「ん? 何かあったのか?」
ふふと腹を撫でている俺に、リリスがきょとんと聞いてきた。こちらも満足げに、食った食ったと腹をさする。
「いや、ちょっとな。今日は仕事で上手くいって。まぁ、そんな感じだよ」
「ふーん。いいじゃん。よかったな」
そう言って、リリスはにっかりと笑みを作った。あー食ったと、それ以上は興味ないとばかりにごろんと横になった。
「……そうだな。うん。いい日だった」
寝ころぶリリスを見つめ、俺はすとんと胸に何かを落とす。何かは分からないが、リリスが間違ったことを言ってないのは理解できた。
今日の俺は、確かに「いいじゃん。よかったな」といった感じだった。
「そうだ。骨せんべい、食ってみるか?」
「ほねせんべい? おー。うまそうだな」
今は少し、腰が重い。というより、腹が重い。
骨せんべいでも摘みながら、日本酒でも飲んで帰ろう。骨せんべい。そのままでも美味いが、俺は醤油を少し付けるのが好きなんだ。
腕時計を見てみると、思ったよりも時間は経っていない。あんだけがっついて食ったのだから当然か。
「お前も飲むか? 骨せんべい以外もいいぞ」
「ほんとか? うーん。どれにしようかなー」
むくりと起きあがったリリスが、悩み顔でメニューを見つめる。そして、読めねぇとそれをぽいと捨てた。俺は、仕方がないとリリスにメニューを説明してやる。
二階建て。良いことがあった日は、二階建て。
それを食ってなお、俺は日本酒を婆さまに告げる。
「今日は、いい日だからな」
何も、誰に遠慮する必要もない。言い訳も要らない。
今日はいい日だ。
いい日だから、飯を食う。そんな日があっても、いいはずだ。




