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第16話 特別な日。老舗うなぎ屋の二階建て (前編)

「……ふふ」


 思わず、にやりと笑みが浮かんだ。

 おっとと頬に手を当て、それでも締まりのない表情が出てきてしまう。


 今日はかなり実のある一日だった。仕事もそうだが、こんなに清々しく夜を迎えるのも久しぶりだ。


「最近忙しかったからなぁ」


 んぅーと、小さく腕を伸ばす。忙しいだけの収穫はあったと思いたい。そう考えると、この幾ばくかの高揚は達成感からか。


「何処か、いい店は……」


 こんな特別な日には、夕食も特別なものが食べたくなる。所謂、自分へのご褒美というやつだ。

 せっかく早く終わったのだしと、俺は会社近くの飲み屋街をぶらぶらと歩いている。店々を見ては、ここではない気がすると首を振った。


「うーむ。中々いい店がないなぁ」


 焼き肉、という手も考えたが何か違う。豪勢には違いないが、なんか今日わざわざ行く必要はない気がする。もっと相応しい日があるはずだ。


「しかし、新しい店というのも」


 がしがしと頭を掻く。新しい店は駄目だ。普段は冒険心も旺盛な俺だが、今日という日は失敗は許されない。自分へのご褒美に入った店が微妙だった日には、その成功まで駄目出しされた気がする。


「知っている店。……どうせなら、普段は食べないものがいいな」


 きょろきょろと、俺は辺りを見渡しながら進んでいく。そうなると高価なものだが、それにしても何でもいいというわけではない。

 寿司、天麩羅、てっちり。確かに豪勢だが、なんかこうぱぁっと食べるという感じではない。高価さは欲しいが、雰囲気が高級過ぎるのも考え物だ。今日はこう、ぐあっと豪快に食いたい。


 どんぶり飯のように、がつがつと食えるような店。ふぃー食ったと、腹をさすっても誰も怒らないような。そんな店がいい。


「カツ丼。……カツ丼という手もあるな」


 ぴんと、腹のセンサーがそれだと音を鳴らす。とんかつ屋のカツ丼。何となくカツ丼には縁のない俺だが、今日がそのときなんじゃないかと腹が囁きかけてきた。


「ああっ、駄目だっ。……しまったぁ」


 しかし、思い出して俺は天を仰ぐ。なんて事だ。痛恨のミス。

 今日の昼は、社員食堂でとんかつを食ってしまっていた。


 なぜ俺はB定食にしなかったのか。鯖の味噌煮にしておけば、こんな事態に陥らなくてすんだのに。


「うぅむ。……いや、やはり連続でカツというのは」


 まぁいいかとも思うが、考え直す。あんな安っぽいカツに、俺の夕食を邪魔されたくはない。ここは、素直に退くのが吉だろう。


「しかし、丼という選択はいいぞ。うん、今日は丼でいこう」


 とくれば、自ずと選択肢は限られてくる。

 海鮮丼。うにいくら丼なんてどうだろう。それか、近くに豚飯の店もあった。


「うーむ。値段から言えば、海鮮丼か?」


 豚飯。香ばしく焼かれた豚肉と、目玉焼き。甘辛いタレが美味い愛媛の郷土料理だが……。今日の主役を張るには少々リーズナブルだ。

 海鮮丼も、やや物足りない気もする。美味いには違いないが、ちょっと肉な気分ではある。海鮮でも、肉のようなどっしり感があれば話は別だが……。


「って、ちょっと待てよ。……海鮮」


 何か、忘れている気がする。海鮮。その響きには似合わないが、肉ではない、何か……。どんぶり。甘辛いタレ……。


「……あっ」


 そのとき、俺の脳神経がぴきんと繋がった。推理小説の主人公になった気分だ。謎は全て解けた。


「うなぎ食べよう」


 俺は、すっきりした頭で足取り軽く街を歩いていく。





 ーー ーー ーー





「よし。ここだここ」


 薄汚れたのれんを確認して、俺はほっと胸をなで下ろした。ここに来るときは、いつも潰れていないかひやひやする。

 赤いのれんには、うなぎの文字。シンプルだが、巧いデザインだ。筆で掻かれたうの字が、うなぎの体を表している。


「うーむ。さすがにいい匂いだ。たまらんな」

「おー。なんか汚い店だな。大丈夫か?」


 くんくんと鼻を鳴らしていた俺の横から、声が聞こえてくる。俺は、おいおいと汗を垂らして隣に振り向いた。


「ちょっと待て。今日出てくるのは流石におかしい」

「はぁ? あんたが呼んだのに、そりゃないよ」


 相変わらず生意気な表情で、リリスは俺に向かって眉を寄せている。しかし、今日ばかりは俺の主張の方が正しいはずだ。


「お前は、俺が、二人で、飯を食いたいときに出てくるんじゃないのか?」

「だから、出てきてんじゃん。こうして」


 ほれと、リリスは身体を見せつけてくる。いつもの黒いゴスロリ服は似合ってはいるが、うなぎ屋には超絶に似合っていない。そして、こいつの話を信じるなら、今日も俺は一人で飯を食うのに困っていたことになる。


「……お前。悪魔としての能力がさびてきてるぞ」

「むっかー。あんた、このリリス様を馬鹿にしてんだろ? 魔界屈指のサキュバスだぞあたしはっ」


 俺の小言に、顔を真っ赤にして怒りを露わにするリリス。そんなことを言われても、これまでのこいつの言動を見るにそれは嘘だろう。


「……すまない。言い過ぎた。お前は凄い悪魔だよ。ほら、うなぎでも食って帰れ。な?」


 可哀想に。俺はリリスを見下ろす。サキュバスが何かはよく知らないが、このアホ悪魔が上位の悪魔であるはずがない。魔界でいい事もないのだろうと、俺はリリスに優しく微笑んだ。


「お、おお。ありがと」


 なんか引っかかるなと、リリスは首を傾げる。それに俺はそんなことないさと笑いかけた。ほら入るぞと、リリスの背中を押してのれんを潜る。

 アホなリリスは、まぁいっかと怒りを消してにこりと笑った。





 ーー ーー ーー





「しっかし、汚い店だなー」

「そりゃあ創業うん十年だぞ。汚くもなるさ」


 座布団の上で胡座をかきながら、リリスはきょろきょろと店を見渡す。壁も床もくすんでいるが、それでも料理屋としての清潔感は保っている。

 畳の座敷も少なくなったよなと、俺は尻の感触に頷きながらリリスにメニューを手渡した。


「ふーん。あれ、あんたは見ないのか?」

「俺はすでに決めてある」


 メニューを受け取ったリリスが、俺の顔をあれと見つめる。俺は決めたメニューがあっても必ず一度は目を通すから、リリスも不思議に感じたのだろう。


 しかし、今日だけは別だ。俺は、とあるメニュー以外頼む気はない。


「……読めねぇ。あたしもあんたと同じのでいいや」


 ちらりとメニューに目を落とした瞬間、リリスがうげっと顔を歪めた。こんな店だ。忘れていたが、確かにメニューには達筆のみが踊っている。


「まぁ、俺と同じのでいいさ。それが一番美味い」

「そうなのか? なら、やっぱそれでいいや」


 ぽいと、リリスはメニューを放ってきた。それを受け止めて、俺は店員の婆さまを呼ぶ。奥の婆さまが反応して、ゆっくりとした足取りでこちらに向かってきた。


「何頼むんだ?」


 ぎぎぎと、油が切れた絡繰人形のように動く婆さまを見つめていると、リリスがなぁなぁと机を叩いた。その声に、俺はにやりと笑みを浮かべる。


 うなぎ屋で上等といえば、うな重だ。うな丼はまぁ、お重の下の位置づけが多いだろう。どちらが美味いかはさておき、値段は大抵お重が上だ。

 しかし、この店は違う。お重よりも丼。とあるメニューが、輝かしい存在感でメニューの端に存在している。


 曰く昔から。良いことがあった日は、この店でそのメニューを頼むのだ。


 俺はそのメニューの名を、浮かべた笑みと共にリリスに伝えた。


「二階建てだ」


 そんな俺の言葉に、リリスが不思議そうに天井を見上げた。

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