第10話 不慣れな街で。洋食屋のお子様ランチ (前編)
少し肌寒さが出てきた。そう思い、俺はちらりと空を見上げる。雲はなく、日はコンクリートの街並みを元気よく照らしている。どうやら、いよいよ秋も本格的になってきたようだ。
「……何か腹に入れないと死んでしまうな」
ふるりと震えた身体を感じて、俺は平日の街を歩き続ける。
現在の時刻は午後三時。かれこれ一時間は歩いているのに、一向に飯を食べるところが見つからない。
「くそ。ここも準備中か」
参ったなと、俺は不慣れな街並みを見回した。ここら辺には初めて来たが、どうやらここいらの店は二時には店を一旦閉めてしまうらしい。
「……くっ。かといって、二時間は待てんぞ」
五時にもなれば再び店が稼働し出すだろうが、さすがにそんなには待てない。現在進行形で腹の音が鳴っているのだ。二時間も待ったら本当に動けなくなってしまいそうだった。
「この際、軽食なんかでも……」
カフェとかなら開いているだろう。そう思い、俺はきょろきょろと辺りを見渡す。すると、運のいいことに向こうの端に喫茶店のような店構えを確認できた。
「よし。あそこにしよう」
とりあえず、サンドイッチでもトーストでもなんでもいい。俺はその店に向かって走り出した。
「おっ、なんだいなんだい。期待以上じゃないか」
店までたどり着き、思わず頬が緩んでしまう。遠目に見えた店は近づいてみると中々豪勢で、どうやら洋食屋のようだった。
今の時間でも開いているのは、喫茶店も兼用しているからだろう。何はともあれ、まともな店にありつけたと俺は店の扉を開けた。
ーー ーー ーー
「ふぅーむ。思ったよりメニューが豊富だな」
ナポリタンとハンバーグしかないと思いきや、意外にもメニューの内容は充実していた。思わぬ僥倖だが、今の俺の腹はメニューを悩む時間すら命取りになりかねない。
「んー。……うーん」
しかし、腹の焦りとは裏腹に全く決まらない。ハンバーグ。ビフテキ。グラタン。……ハンバーグドリアまである。
ああ、どうして俺はこんなに優柔不断なんだ。そう思って、俺は一旦メニューから視線を外した。水のグラスを取り、ひとまずぐびりと喉を潤す。
(そういえば、子供の頃から注文を決めるのが遅かったな)
ふと、昔を思い出した。遠い記憶だ。若い母の声が、今でも耳に残っている。ゆっくり決めなさいと、にっこりと俺の横に座っていた。
「……ビフテキ、かぁ」
今となっては、この名前のメニューが載っている店は少ないだろう。ステーキと、そう表示されている店がほとんどだ。しかし、俺が子供の時代はまだビフテキと書いている店も多かった。思うに、牛肉であることを強調したかったのだろう。
子供のときは、頼めなかったな。そう思って、メニューのビフテキを見つめる。何でも頼んでいいと言われても、結構子供は遠慮するものだ。何となく、これは頼んじゃだめなものだと認識していた。
「今なら……」
頼める。そう考え、ふるふると首を振る。おそらく、今これを頼んでも何も満たされはしないだろう。
「……ハンバーグにしよう」
ぱたんと、自然と手がメニューを閉じた。思い出す。昔、たまの外食に連れて行って貰ったときは、ハンバーグのある店にして貰っていた。
熱い鉄板で運ばれてくるハンバーグが危ないからと、自分の前に置かしてくれなかったことを覚えている。なんとも残念な気持ちで見つめたものだ。
「すみませーん。ハンバーグとライスください」
奥の店長らしい男性に、俺は手を挙げて注文する。聞こえたのか、店主は承知しましたと右手を挙げた。
それを見て、俺はふぅと椅子にもたれる。ハンバーグを頼んで、少し心に余裕が出てきた。俺は、ちらりと店を見渡す。
流行ってるかは分からないが、小綺麗な店だ。喫茶店のような内装は、少々アンティークな装いで俺を出迎えてくれている。テーブルがしっかりとしていて、この辺りが喫茶店というよりも洋食屋らしい。
「そういえば、洋食屋って最近見ないよな」
肘を付いて、そんなことを考える。パスタ屋やファミレスは増えたが、何というか、ザ・洋食屋って感じの店はめっきり見ない。
俺が子供の時は、外食と言えば洋食屋だった。ハンバーグもスパゲティも、オムライスも何だって食べれた気がする。
「……専門店、か」
少し、理由について考えてみた。要は食の多様化が進んで、専門店が増えたのではないだろうか。オムライス専門店なんて、昔だったらまずやっていけないと思う。それと同じで、何でも食べれるような洋食屋は、全部チェーンのファミレスに取って代わられたのではないだろうか。
詳しくは勿論分からないが、そんな気がする。
「記憶ってのも、曖昧なもんだな」
正直、街からいつ洋食屋が消えたのかが思い出せない。ファミレスも回転寿司も、俺が子供の頃にはまだ珍しかった。……いつくらいからだろうか、ファミレスで「済ます」ようになったのは。
「……田舎か。最近帰ってないな」
正月と盆には帰っているが、それだけだ。それも数日滞在しただけで、すぐに仕事があると戻っている。
おせち料理なんて今では特別美味いものでもないが、それでも母が作って待っていてくれると楽しみだ。
ふと、一体後どれくらい母に会えるのだろうかと思いが過ぎる。
一年で六日くらいしか会えないということは、後一八〇日程度。半年くらいしかない。俺も親も年を取ったなと、少し切ない気持ちで窓を見つめた。
「はい。ハンバーグね」
ぼんやりとしている俺に、店主の声がかけられる。それと同時に、テーブルの上のじゅうじゅうという鉄板の音が耳に入ってきた。
「おお、これは凄い」
まんまると大きなハンバーグ。二〇〇グラム近くありそうだ。じゅぷじゅぷと鉄板の上で少し焦げているデミグラスソースが、否応無く鼻の神経を刺激する。
そういえば、腹が減っていたんだったと俺はナイフとフォークを握りしめた。
「おっ、ほほ」
ずぷっと、ナイフがハンバーグに通っていく。そのとたん、じゅわりと肉汁があふれ出た。定番の表現だが、やはり肉汁はいいものだ。この見た目だけで美味しさが二割は増す。
「……んっ。うんっ、美味い」
もぐもぐと、俺はハンバーグを噛みしめた。しっかりとした肉の旨み。そして、洋食屋らしいデミグラスソースの味。なんというか、これぞ洋食って感じだ。
「ははっ。美味すぎるな」
先ほどまでノスタルジックな気分に浸っていたが、これじゃあ台無しだと笑ってしまう。俺が子供のころ食べていたハンバーグは、こんなに美味しくはなかっただろう。……しかし、不思議と満足感は昔の方が強く残っている。
「うん。美味い美味い」
もぐもぐと、ライスも口に詰め込んでいく。パンもあるのだろうが、ハンバーグにはライスだ。正直、パンを頼む奴は気取っているだけだと思う。若い奴は知らないが。
どんどんと、ハンバーグの量が減っていく。大きく見えた塊も、いざ食べ始めてみると物足りないくらいだ。それだけ腹が減っていたという事かと、俺はぐいっと水を喉に通した。
「食べてしまうな」
今更ながら、びっくりする。当然といえば当然だが、俺も大人だ。ハンバーグ一人分なんて、ぺろりと平らげれる。
昔は、母と俺の二人で一つのメニューだった。親父は普通で、俺と母で一人前。金の問題もあったのだろうが、それ以上に俺がそこまで食べれなかったからだろう。
それでも母と分ければ少ないもので、子供ながらにあんまり食べると母の分が無くなってしまうと思っていた。思い返せば、遠慮する俺よりも先に、母はいつもお腹いっぱいになっていた気がする。
「……ふふ」
ハンバーグの横のフライドポテトを、フォークで突き刺した。もぐもぐと咀嚼し、すっかり少なくなってしまったハンバーグを見つめる。
そういえば、思い出す。
俺はおもむろに、メニューにもう一度手を伸ばした。
ついぞ、子供時代に食べれなかったメニューがあった。憧れてはいたし、食べる機会も何度かあった。しかし、阿呆な俺は変なプライドが邪魔して頼まなかったのだ。
「おっ、あるじゃないか」
メニューの中に、目当ての文字を見つける。今では、それこそ何でも食べれるファミレスでしか見ない気がする。
しかしこのメニューは、間違いなく当時の子供の憧れだった。




