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第01話 出会った日。マグロの漬け丼

 速見誠一郎は悩んでいた。

 じいと手元を見つめて、両手に握られた品物を吟味する。


「赤身……いや、ここは中トロか」


 9時も過ぎようかというスーパーの生鮮食料品コーナーで、誠一郎はうーむと真剣な表情で眉を寄せていた。


「赤身、一パック720円が半額。……しかし、中トロも200円引き」


 困ったなと、誠一郎は目の前のマグロの短冊と切り身を眺める。

 別に数百円程度でどうこういうつもりはないが、こう眼前に値引きのシールを貼られてしまうと考えてしまう。


 問題は、量的には中トロがやや物足りないという点だ。しかし、二パック買うには多すぎるというジレンマ。ならば、ボリュームで赤身を狙いたいところだが、包丁を入れる時間も考えると悩ましい。普段は気にもしない手間だが、今日の仕事の疲れがそれを大いに拒否していた。


「いっそのこと、サーモンに逃げるか。……いや、それは何かに負けた気がする」


 誰と勝負をしている訳でもない。が、これは男の意地というものだ。今日の夕飯はマグロ。そう決めたのは他でもない自分自身だ。ここは何としても初志を貫きたい。


「……まてよ。確か家に徐々苑のタレがあったな」


 良いことを思い出したと、誠一郎の頬がゆるむ。あの某有名焼肉店のタレは肉に付けても勿論美味いが、マグロの赤身に付けても物凄く美味い。お手軽に上質な漬けマグロを味わえる。


「米は炊いているし。……うーん、いいぞ。イメージが涌いてきた」


 誠一郎の頭の中に、熱々の白飯が思い浮かぶ。湯気が立っているそれに、ちょんちょんとタレの付いたマグロをバウンド。それを口に放り込み、一気に白飯をかき込むのだ。


「おっと」


 想像した瞬間、ぐぅと腹の音が鳴ってしまう。はははと辺りを見渡すが、幸い近くには誰もいなかったようだ。


「……よし。赤身だ。赤身でいくぞ」


 確固たる意志で、誠一郎はがっつりと赤身のパックを掴むのだった。





 ーー ーー ーー





「お、ちょうど使い切ってしまったな」


 自宅に戻ると、俺は台所で空になった徐々苑のタレの容器を見つめた。思ったよりも残容量は少なく、結局はマグロの半分ほどしか漬けには出来なかった。


「残りは刺身として頂きますか。……わさびも、あったあった」


 がちゃりと冷蔵庫を開け、中に入っていたチューブわさびを取り出す。やはり、わさびが無くては刺身は始まらない。


「包丁も洗っておくか」


 マグロの短冊を切った刺身包丁を、丁寧に洗っていく。食べ終わってから食器と一緒に洗ってもいいが、その場合面倒くさくなってしまったときが大変だ。気分が乗っているときに流れでやってしまったほうがいい。


「さてさて。食おう食おう」


 包丁を無事洗い終え、俺は漬けの入った器と刺身が盛られたパックをちゃぶ台へと運ぶ。淋しい男の一人飯だ。何も洗い物を増やすことはない。


「よしよし。米も炊けてる炊けてる。ふふ、炊飯器はいい奴を買って正解だったな」


 いそいそと茶碗に白飯をよそいながら、俺は見事に炊き上げられた米の粒に賞賛を送った。


 家電を選ぶのには慎重を要する。自宅で一週間。家電売場で三時間。悩みに悩んで、予定よりも一段階上のものを購入してよかった。


「炊飯器がいいと、ここまで違うとは。高い米を買うよりも、よっぽど賢い選択だな」


 一口目、白飯そのままを口に運びもぐもぐと咀嚼する。よく噛んで食べるのは和食の基本だ。……美味い。米の旨さがストレートに舌の味蕾を刺激する。


 コシヒカリだ何だといっても、炊飯器が悪ければその本領は発揮されない。逆をいえば、炊飯器さえ良ければ米自体はそこそこでもいいのだ。


「ま、俺はそこで米もいい奴を選ぶのですがね」


 つい、そんな独り言を呟いてしまう。魚沼産コシヒカリ。五キロは三千五百円。奮発して買ってみたが、やはり美味い。……どこが美味いかと言われると困るが、美味い気がする。こう、日本人のDNAにびんびんくる。そんな気がする。


「ふふ、本日のメインディッシュ。どらどら、お味のほうは……」


 もぐもぐ。……もぐ。ごくり。


「うん。美味い!」


 先ほどから美味いしか言ってない気がするが、やはり美味い。ねっとりとした赤身の食感に、タレが見事に絡まっている。冷たい漬けマグロを口に含みながら、熱々の白飯を加えていく。その作業が、たまらなく楽しい。


 甘みを含んだタレを、わざと白飯の上にバウンドさせる。新雪に足跡を付けるがごとき愉快さ。行儀は多少悪いのかもしれないが、これをせずして何のためのタレと白飯か。


「やっぱり、白飯なんだよなぁ」


 もぐもぐと口の中でマグロと白飯を融合させていく。口内調理は日本人の特権だ。噛めば噛むほど美味しいというのは、是非とも早食いをしている人に知って欲しい。


「さてと、続きを読みましょうかね」


 ひとしきりマグロを堪能した後で、床の上に置いてあった本を手に取った。食べながら読書。ふふふ、とんでもない行儀の悪さだ。だが、これが一人飯の醍醐味でもある。


「悪魔の書ねぇ……」


 手元にあるのは、つい先日行きつけの古書店で発見した古本。表紙には英語で、悪魔の書と記されている。胡散臭さ、ここに極まりといった様子だ。ただ、装丁が妙に革張りで豪華なのと、ぼろぼろになった感じがいかにも本物っぽくてつい購入してしまった。


 店の主人にぼったくられた感は否めないが、帰って中身を調べてみるとどうにも色々と凝ったもののようだった。もしかしたら、中世辺りの代物かも知れない。


「悪魔召還の儀式……。ふふ、この魔法陣を描けば俺も世界の支配者か」


 悪魔と契約し、願いを叶えて貰う。その代償が何なのかは、この書には今のところ記されてはいない。もしかしたら、ただということもあり得るのだろうか。


「願い事、ね」


 考えてみるに、自分には願い事という程のものがない。二十九歳、姉の姪っ子におっさんと呼ばれたことがショックと言えばショックだが、それでも悩むほどのことではない。


 仕事も順調。ある程度の辛さはあるものの、週に一度は休み。手取りも、同年代の中では抜けているほうだろう。生え際の後退もなし。恋人はここ五年ほどいないが、それも今はどうも乗り気になれないでいる。


「29歳かぁ」


 マグロの刺身を醤油に浸けながら、しみじみと独白する。結婚。男といえど、そろそろ考えなければならない時期だろう。


 結婚。恐ろしい響きだ。何が恐ろしいって、好きなときに好きなものが食えない。これだけで、身が震えるほどに恐ろしい。


「……うむ。この話題を考えるのはやめよう」


 四十や五十になって一人で飯を食っているところを想像して、少しだけ気分が盛り下がる。一人飯は好きだが、孤独はいかんともし難い。


 思い起こせば、最近人と話すということがない。勿論、仕事の話は職場でするが、それだけだ。今の職場は飲み会や付き合いの席も特にない。仕事が終われば各自、同僚には無関心とばかりに帰路についていく。


 無論それは有り難いことだし、自分としても余計な人付き合いは避けたいところだ。だが他の同僚は、やれ恋人だやれ家族サービスだと大変有意義に時間を使っているらしい。そう考えると、一人で飯を食っているだけの自分が何となく負けているような気になる。


「うーむ。料理教室にでも通うか」


 趣味といえば、食べ歩きと料理。そして読書。これ以上ないくらいに出会いのないラインナップだ。しかし女性だらけの場所で自分がエプロンを着ている光景を想像して、これはないなと頷いてみた。


「ま、もう少し一人を楽しむさ」


 日々の飯が美味くて、本が読める。これ以上の幸せはないだろう。それ以降のことは、そのときに考えようと俺は本のページをおもむろに進めた。


「儀式に必要なもの……」


 めくったページには、悪魔を召還するための儀式に必要なものがリストで示されている。内容は実に簡単だ。供物に、その供物の血。それで魔法陣を描き、悪魔を願えば召還は成立するらしい。


 よく漫画にあるような、長ったらしい呪文も要らないようだ。へぇと思いつきのように、俺は箸でトレーに残っていたマグロの血を引き延ばした。


「こんな感じか」


 魔法陣も、円と少しばかりの幾何学模様のシンプルなものだ。何となくだが、それなりのものがトレーの上に完成した。不格好だが、遊びならば上出来の部類だろう。


「んで、願うと。……悪魔さん、お越しくだせぇ」


 南無南無と、手を合唱させて悪魔を呼ぶ。馬鹿らしいが、これをこの時代の人々は少なくとも本気で信じていたのだ。そう思うと、なんとも感慨深いものがある。


「……さて、残りを食べてしまうかね」


 もういいだろうと、俺は顔を上げた。そろそろ夜も遅いし、さっさと食べて風呂を沸かさねばならない。



「あたしを呼んだのはあんた?」



 その少女と目が合った瞬間、俺の時間は停止した。





 ーー ーー ーー





「……え?」


 見やる。ちゃぶ台の上に、可愛らしい少女が屈むように足を広げてこちらを覗き込んでいた。


 黒髪の、整った顔立ちの少女だ。変わったところがあるとすればーー


 その少女には、翼と尻尾が付いていた。


「……えーと、君は?」

「はぁ? あんたがあたしを呼んだんでしょうがぁ。で、願いは何よ? 叶えてあげるから、さっさと言いなさい」


 そのときに、俺は何となくだが理解した。この少女は悪魔なのだと。

 見た目もそうだが、少女の身体からは得体の知れないオーラが漂っていた。これが魔力というものなのだろうか。とにかく、目の前の人物が人間でないのは、本能的に理解できた。


 だとすれば、少女の言っていることは本当なのだろうか。


「あの、願い叶えたら……こ、殺されますよね?」

「んなわけないでしょう。こうして供物を貰ってんだから。……って、美味しいわねこれ」


 少女が、トレーの上のマグロを摘み上げて口に運ぶ。最初は何じゃこりゃと眉をひそめていたが、口に入れた瞬間にびっくりしたように目を見開いた。


「魚? あんた、悪魔呼ぶなら肉でしょ肉。……でも、美味しいわね。むぐむぐ」


 文句を言いつつも、少女は嬉しそうにマグロの切り身を口に放り込んでいく。醤油も付けずに、美味しそうな表情だ。


 そんな少女の笑顔を見ているうちに、俺はつい口に出していた。



 今でも、何であんなことを言ったのか思い出せない。


「……一緒に、飯を食ってくれよ」


 その願いを聞いたときの少女の顔を、俺は今も鮮明に思い出せる。





 ーー ーー ーー





「リリスティア・タルムード・ミドラッシュよ。リリスでいいわ」


 そう言うと、リリスはもぐもぐとマグロの刺身を摘み始めた。奇妙なものを見つけたように、俺を不思議そうに眺めてくる。


「……あたしと食事がしたいだなんて。あんた変わってるわね。悪魔に産まれて三百余年。そんな願いは初めてよ」

「ああ、俺も驚いている。何であんなことを言ったのやら」


 まあ、不幸中の幸いといえば、マグロの赤身の量がやはり一人ではきつかったということだ。リリスのおかげで、残すことなく食べきることが出来るだろう。


「でも、ほんと美味しいわねこれ。魚だけど、肉みたい」

「これも食べてみるか?」


 先ほどから刺身ばかりを腹に入れているリリスを見て、俺は漬けマグロの器を差し出した。甘口の醤油ベースが悪魔の口に合うかは知らないが、何となく食べさせてみたくなったからだ。


「……それ、別に捧げられてないんだけど」

「構わないだろ。俺の願いが、一緒に食事をしてほしいってんだから」


 俺の言葉に、それもそうかとリリスが漬けの器に指を入れる。そのまま、タレが机にこぼれることにも気にしないで、リリスは漬けマグロをあーんとくわえた。


「……なにこれ。美味しい」


 ぽつんと、リリスが呟く。ちょっと信じられない表情だ。もしかしたら、味の付いたものを食べたのが初めてなのかもしれない。


「ほら、もっと食っていいぞ」

「……ちょっと。なによこれ。美味しいじゃない。ってか、今までの供物は何だったのよ。こんなのあるなら初めから出しなさいよ」


 ぱくぱくと、リリスはマグロを平らげていく。俺はもう腹八分目といったところだったので、別に全部食ってくれても構わないやとリリスを見つめていた。


「今まではどんなもん出されてたんだ?」

「そりゃ肉よ。人の肉とか、豚とか牛とか。新鮮だったけどね」


 うわぁと、つい顔をしかめてしまう。人の肉は想像し辛いが、豚肉の生は身近なだけに何となく想像が付いてしまって気持ちが悪くなる。寄生虫とか大丈夫なのだろうか。


「そりゃあ、お気の毒に。何かもう、そりゃ食い物じゃないな」

「なによそれ。食べれないもの供物に捧げてんじゃないわよ。それでも喜んで召還されてた、こっちの身にもなりなさいよ」


 リリスはがつがつとマグロを食べながら、じろりと俺を睨みつけた。そんなことを言われても、昔の人間の責任まで取らされてはたまったもんじゃない。


「ふぅ。美味しかった。今までで一番美味しかったわ」

「そりゃどうも」


 満足そうに腹を撫でるリリスを見る。裸と言えなくもないが、胸と下半身は毛のようなもので覆われていて肌を見ることはできない。可愛らしいが、目のやり場に困るということはなかった。


「さて、と。……普通はここで魂を抜き取るんだけど」

「えっ!?」


 リリスの突然の告白に、俺はびくりと身体を震わす。騙したのかと、リリスをただただ見つめた。


「当たり前でしょ。こちとら悪魔よ。……でもねぇ。願いがしょぼすぎて、供物の代償で賄えちゃってるのよね」


 まあ、あんた面白そうだしサービスしといてあげるわと、リリスはにっこりと俺に笑った。


「それに、まだ願いも途中だしね」


 そう言うリリスの言葉に、俺は首を傾げる。俺の願いは、叶ったはずだ。リリスとこうして食事を共にしたことが事実であるのは、綺麗に消えた皿の中身が証明している。


「んじゃ、またね」


 言うだけ言って、リリスは忽然と姿を消した。

 気が付くと、床に置いてあったはずの悪魔の書が消えている。もしかしたら、次の持ち主を捜しにいったのかもしれない。


「……何だったんだ一体」


 こうして、俺と悪魔娘との最初の一夜が終わった。

 残されたのは、空の皿と、少しの満足感。



 その日俺は、久しぶりに誰かと一緒に飯を食べた。

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