妻の香りのシャンプーは我が家のどこにもなかった
「先輩は子供作らないんですかぁ?」
会社の同僚達から出産祝いを受け取った五つ下の後輩、高田が妙に癇に障る声で言った。
芽株哲夫は眉根を寄せたが、すぐに指で伸ばして目が疲れたかのように装う。
休憩のためにデスクへ持ってきたコーヒーからは暖かな湯気が上がっている。哲夫は口をつけて、ふう、と息を吐いた。
「知ってるだろ、俺はもう少しあちこち旅がしたいの」
「え~奥さんカワイソー」
うるさい、と哲夫は高田を睨み付ける。
そこへ頭髪が寂しくなりつつある係長が心配そうに声をかけた。
「高田、あんまり言ってやるな。まあ、でも女性にはタイムリミットあるんだからな。男も遅いといろいろなリスクが上がるらしいぞ。君も三十半ばだし早い方が……」
「あんまり言うとセクハラになりますよ。いまや、同性同士でも通用するんですからね」
お前もか、とげんなりした顔で哲夫は二杯目のコーヒーを入れに給湯室へ向かった。
(なんだ、どいつもこいつも子供、子供って。これだから田舎は。俺達のことは俺達しかわからないっていうのに! 英実だって、いいと言ってくれているし)
旅行がしたいから子供は先にしようという話をしたとき、妻の英実はちょっとしぶしぶ、という表情ではあった。しかし「……そう」と同意はしてくれたんだと哲夫は自分に言い聞かせた。
哲夫はデスクに戻ると乱暴にパソコンのキーを叩き、いつものどう変わるでもないような書類を処理していく。
苛立ちのせいか見直しの見直しをしても間違いがなかなか見つからない。
不均衡な心のまま気づけば終業時間の六時半が過ぎていた。
哲夫は普段通りどうということもなく帰路についた。
家に着くと、チャイムに返事がなく、家の鍵が閉まっていることにイラついた。哲夫が懐からキーケースを取り出したところで英実が帰ってきた。
「ごめーん、今ご飯作るから。テレビでも見てて、それかお風呂入る?」
「風呂かな」
「じゃあ、いれるから待っといて」
言って英実は風呂の水道をひねり、ばたばたとキッチンに籠った。
最近はずっと英実の帰りが遅かった。
(役所勤めのくせに残業などあるだろうか?今までは定時で帰ってきていたのに)
それに様子がおかしい、と思う。
もともと冴えない印象の妻の英実が綺麗になってきたのである。さらに最近知らないシャンプーの香りがすることもある。今日もそうだ。
そして極め付けに下着の趣味が変わった。洗濯籠に何気なく放ってあるブラジャーは黒いレースがいやらしい。二十九の英実が普段つけない若向けのデザインだった。
世間で聞く浮気兆候に見事に合致する。
これはクロだろう、と哲夫は思った。
いままで、妻へのいたわりとしてマッサージをたまにしていたのだが、
「揉み返しが来るから」
と断られるありさまだ。
夜の生活はほとんどなく、この間洗い物をしている英実に抱き付くと忙しいと邪険にされた。
「都合の良いときばっかり。あなたって自分勝手ね」
哲夫は最近よく英実に言われていた。
英実との折り合いは悪くはないと思うし、近頃では改善してきたとすら思える。
しかし、すべて浮気が原因だと思うと合点がいく。
「アイツ……」
風呂の中で哲夫はもやもやとした気持ちを消化できないでいた。
英実のこと、その浮気相手のことを考えると胃から苦い水が上がってきそうだった。
哲夫はいつも通り、なかなかうまい夕食を食べ、会話も少なく決まった番組をテレビで見る。
その日も英実は風呂に入らなかった。
それからひと月が経った。
英実は相変わらず帰りが遅い。特に水曜と金曜は遅かった。しかもご丁寧に生理の日は早く帰ってくる。
いつの間にかシャンプーの匂いはもとに戻っていた。
しかし、代わりに家から英実のシャンプーがなくなっていた。
(遊びなのだろうか。疑い始めたときから夜の誘いはしていない。もともと俺からはしていないが、アイツからも誘いがなくなった)
「もし、俺が浮気をしていたらどうする?」
哲夫の言葉に英実は
「離婚するわ」
と、蔑んだような目を向けた。
以前聞いたときは「そんなの嫌」なんて可愛く抱き付いてきたのに、と哲夫は思った。
浮気が妻を変えてしまったのだろうか。
哲夫は眉間に皺を寄せ、自分で伸ばす行為をどれだけしただろうか。
その日も朝からその行為を繰り返した。
(もう、限界だ。今日、アイツの浮気を暴いてやる)
おあつらえ向きにその日は金曜日だった。
哲夫は会社を午後から休み、服を買いに行った。
一度使えれば良い、とファストファッションの店で長めのコートとつばの大きい帽子を手に入れる。
サングラスは百均だ。レジに向かう途中似たような帽子があったのに気付き、哲夫は少しがっかりした。
(そういえば、自分で服を買うのは久しぶりだったな)
結婚生活にすっかり慣れ、英実に衣服の管理をすべて任せたのはいつだったか。哲夫は思い出せないでいた。
掃除洗濯料理。英実はよくやっていた。それは浮気をする前からだったろうか。
帰りが遅くなり始めてから食事は美味しくなった気がする。
考えてまた哲夫は手を眉間に持っていった。
「じゃあ、芽株さんまた明日」
英実は役場の職員玄関から出て、同僚と別れると車に乗り込んだ。あとを哲夫がレンタカーで追う。
(アイツ、やっぱり遅いのは仕事じゃないじゃないか)
イライラしながら家とは反対方向にウィンカーを出す英実の車を睨み付ける。
住宅街とは全然違う方向へ走っていく。
(山?)
英実の車はちょっとした山を登っていき、頂上近くにあるホテルへと入っていった。
ホテルとは言ってもラブホテルではない。ただの温泉宿泊施設である。
露天風呂や最上階のレストランから見える景色が綺麗で、花火大会が行われる日などはとても混むホテルだった。
(こ、こんなところで何してるんだ……と、とりあえずつけないと)
英実はフロントの人になにか話してタオルを受け取っていた。
「日帰り入浴ですか? あちらの券売機で入浴券を買ってくださいね」
ホテルの従業員に話しかけられた哲夫は、ちょうどいいと思って日帰り入浴券を購入した。
ホテルの中は掃除が行き届いており清潔感があった。英実は手慣れたしぐさで女湯ののれんをくぐる。
さすがに哲夫は女湯に入るわけにもいかないので、男湯で時間を潰すことにした。
ホテルの温泉は打たせ湯やサウナ寝湯、バブルバスなど、工夫がしてあり、もちろん目玉の露天もあった。
哲夫は体をよく洗い、温度が低めの湯へと入った。
恰幅のいい男が近づいてくる。
「兄ちゃん、あんま見ねぇ顔だな、初めてか?」
「え、ええ」
この時期に来る観光客は少ないらしい。男は常連らしく週に何度も来るようだ。
「月単位の定期券があるからな。ここの温泉は得なんだ」
「そうですか」
「それにここの露天風呂はな、何度も入ると幸福になるという幸福の湯って言ってな……っておい」
男の薀蓄に哲夫は面倒になってサウナへと逃げた。
水風呂で火照った体を冷やす。そして軽く湯につかり、男湯を出る。
ちょうど英実も出てきたところらしい。
部屋でも取っているのかと思いきや、英実はホテル内のマッサージ店に入っていった。予約制らしく、哲夫が入ることはできなかった。
男性の店員とは親しいらしく、笑顔を交わす。
アイツの笑った顔、しばらく見ていなかったな。
哲夫は自動販売機で買ったオレンジジュースをちびりちびりと飲んだ。
湯上りの火照った体にちょうど良い。
空調もちょうどよく、哲夫は英実を待つうちにうつらうつらとしてしまった。
「あなた?」
英実が哲夫に声をかけた。
後ろには心配そうな店員が立っている。
「英実?」
哲夫は目をこすり、英実を見上げた。
「偶然ね? それとも私の話を聞いて来たくなったとか?」
「ん? 後ろの人は」
哲夫が聞くと英実は後ろを向き顔色を変えた。
「え? あの」
「おつりです」
店員はそういって英実に硬貨とレシートを渡した。
「おまえ」
「私の稼いだお金でマッサージを受けて何が悪いの?」
「悪いとは言ってない」
哲夫は唇を尖らせた。
「いつもそう」
英実が目を鋭くして言う。
「いつも?」
「あなたは、都合が悪くなると私の意見を黙殺しようとするのね」
英実はため息をつき、帰ると言った。
哲夫もタオルをフロントに返し、レンタカーを返してから家に帰ることにした。
「おまえ、罠にはめたな」
「は?」
「いつもは何していたんだか」
哲夫は帰るなり英実を責めたてた。
英実ははあ、とため息をついた。
「聞かなかったじゃない。いつもいつも」
「言わなかっただろう」
「あら、予定について話さなくてもいいルールじゃなかったのかしら。それにあなたは私が話そうとしても『疲れているんだ』『あとにしてくれ』もしくは生返事」
「だからって」
「温泉にいっちゃだめなの? 私にはそんな権利すらないのかしら」
哲夫はついに頭にきて本題を切り出した。
「そんなこと言って浮気していたろう?」
「はあ?」
しらばっくれる気かと哲夫は英実を鋭く睨み付けた。
「いつもいつも水曜と金曜ばかり遅いし、下着は派手になるし」
「温泉に行ってましたけど? 水曜と金曜はマッサージ。脱衣所で他の人に下着を見られるのが気になって。趣味のいい子に教えてもらったお店でいい物を買っただけだけど」
「嘘ばっかり言うな!」
もっともらしい言い訳に哲夫は怒鳴りつけた。
英実はまたか、いったように頭をおさえた。
ため息をつくと、ふっと表情を消した。
彼女は潤った肌で黒髪は少し湿っている。
体温は一瞬で冷めたように、火照りも消えたように感じた。
「終わりにしましょうか」
「やっぱり浮気を」
「離婚しましょう」
哲夫は動きを止めた。
離婚? 今離婚と言ったのか。
「俺より浮気相手の方がいいのか!」
「浮気なんかしてないわ。あなたにほとほと嫌気がさしていたのよ」
「は?」
「私の言葉をいっつもいっつも聞き流して、自分の都合のいいように解釈して」
英実がこれほど荒々しく喋ることは今までなかった。
「そんなことしてない」
否定しながら、哲夫は妻が別人であるかのような錯覚を受けた。
もしくは体温のない人形か何か。
「私は子供が欲しい。だから離婚してください」
「え?」
「あんたは子供いらないんでしょ。私は早いうちに離婚して子供が欲しいの」
英実は息を吸い込んだ。
「セックスレスは離婚理由になる、そう聞いたの」
「まさか」
「なるの。弁護士に聞いた」
「べんごし?」
哲夫は英実と弁護士という言葉が結びつかなかった。英実は妻はそれほど離婚したかったということだろうか。
「あの温泉でたまたま弁護士の方と知り合いになってね。世間話をしているうちに、あなたってかなりひどい人だって気づいたのよ」
「ひどい人?」
「共働きなのに家事の一つもしない、力仕事さえ私任せ、良きに計らえ。どこのお大臣よ」
哲夫は目を白黒させた。
「私は自分で人生を切り開くことにしたの。とても素晴らしいと思わない?」
哲夫はうなだれ、英実は机に離婚届を置いた。
「これ、書いてね。あなたもあそこの露天風呂に入ったら少しは変わったかもしれないのにね」
英実は荷物を以前からまとめていたようで、すぐに出ていくらしい。
哲夫はその手際に何も言えず、ただただ呆然とするしかなかった。
「あそこは私にとって幸福の湯だもの」
哲夫しかいないリビングに英実の声はいつまでも響いた。