7
好意に甘えてホテルまで送ってもらっただけでも申し訳ないのに、麻子は心配だからとロビーまでついてきてくれた。その表情が硬いところを見ると、心配は心配でも脩さんのことじゃなくて、私に電話をかけてきた「ミスミさん」が気になっているのと思う。
大丈夫だと思うよって言ってみたけれど、私は気づかないうちに詐欺に遭うタイプだと言われた。あんまりな言いようだ。そこまでうっかりじゃないやい。
でも麻子の中での私という人間は、それはもう間抜けでおバカな奴なんだろうな。うっかり穴にでも落ちて死んじゃうと思っているに違いない。
ロータリーのあたりにいる身なりのいい宿泊客を見ただけでも帰りたいような気分になったけれど、そうもいかない。
回転扉をくぐって、暖色に照らされたロビーへ足を踏み入れる。
目線を周囲に巡らせてすぐ、その人を見つけた。というより、私が見つけられていた。
こちらが申し訳なくなるような丁寧な口調をしていた男性は、意外なことに脩さんと同い年くらいに見える。ラフすぎる脩さんにきちんとしたビジネススーツを着せて横に並ばせれば、だいたい同じくらい。
細いフレームの眼鏡の奥を安堵にゆるめて近づいてきた男性は、細身の均整のとれた身体を少し屈めるようにして私に確認をした。
「谷口慧香さんですか?」
「はい。ミスミさん?」
「そうです。――こちらの方はご友人ですか」
麻子に淡い笑みを向けてそう言うので、心配されているのだと素直に話してしまった。
ほんの少し驚いたような顔をしたミスミさんは、こちらに責任がありますと言った後に名刺を麻子に渡した。
「佐野も秘密主義というわけではないのですが、周囲が騒ぐのをことのほか嫌がるものですから」
私はこういう者です、とお決まりのセリフが聞こえる。
その言葉に促されるように、麻子が手にする名刺に私も目を落とした。
【株式会社JUPITER/社長室秘書/三澄聖司】
「……ユピテル?」
呆気にとられたような麻子の声を、私も不思議と遠い感覚で捉えた。
JUPITER――ユピテル。その英語ではない読みをいまや小学生でも知っている。
「佐野はこちらのホテルで他社のレセプションパーティーに出席していたのですが、途中で体調を崩していまは部屋を取って休んでいます」
電話で話していたことに少しの補足を付けて、三澄さんはそう言った。
麻子は渋い顔で名刺を睨んでいる。
「麻子……?」
顔を上げた麻子は、名刺を丁寧に鞄にしまうと三澄さんに向き直った。
「慧香のことはしっかり見ていてくださるんですよね?」
不思議な質問だ。まるで三澄さんを通して脩さん――その他の人へ伝えようとしているみたいな。
三澄さんは女子高校生でしかない麻子の言葉にも、ただ微笑んで頷いた。まったく動じない。
「はい。佐野は一晩こちらに宿泊させる予定です。慧香さんにも一部屋用意してあります。幸いにも明日は祝日ですので、慧香さんはそれでも構いませんか?」
「あ、はい」
「――わかりました。では私は失礼します。……慧香、何かあれば連絡して」
納得はしたが受け入れがたい――そんな憮然とした顔で、麻子はそう言った。麻子の中で何が完結して何が始まったのか、いまの私にはとうてい理解できない。目の前で起こっている珍事に手いっぱいだ。
「じゃ、明後日に学校でね」
ひらりと身をひるがえして遠ざかる麻子を見送った。本当に友達想いな友達だなぁ。
同じようにしていた三澄さんはしばらくしてから、では参りましょうかと私を促して滑らかにエレベータに向かって動き出す。うん、これだけでわかるくらい、この人って育ちが良いのではないかな。弥代学院の上流階級組によくいるタイプに見える。
私がけっこうどうでも良さそうなことを考えているのがわかるのか、私のわずかに前を歩く三澄さんが困ったように振り返った。
「あなたは、何もお尋ねにならないのですね」
静かにそう言った三澄さんの言葉は、この状況に感心がないのかと暗に含みを持っているような気がした。
そうじゃない。そうじゃないんだけど、どうしよう。
「いえ、何て言うか……」
言葉を探すけれど、相応しい表現なんてあるんだろうか。
私はどうもスピーチが苦手だ。
「不思議に思ってなかったわけじゃないです。むしろ全部が不思議というか。どこから気にしていいのかわからないというか。それはいまになっても同じで、これを糸口だとは思えないんです。暴き立てて満足したいって言う欲求がわかない。変でしょうか?」
「いいえ。ただ――」
三澄さんはそこで、ほんの少しだけ表情を変えた。微笑みに少しだけ影が差して、朝の脩さんのように疲労が滲む。
「あなたのように考えられる人間は少ないと思います。佐野の周囲は、あまり彼を放っておきたくないと思っているので」
それはあなたも同じでは――?
その一言だけは飲み込んで蓋をした。頭の中で駄目だと声がする。
三澄さんの口調は、脩さんに対して親しげだ。短い時間ながら人柄に問題はなさそうだし、同年代ということはきっと親しい同僚の一人だろう。脩さんをきっと心配している。
けれどそれが、私に対しても同じように好意的であるなんて考えちゃいけない。
エレベータに乗り込んでからはひたすら沈黙だった。押された階数のボタンは三十五階。しばらくはこの空気が続いてしまう。
思いをはせればぞっとしないでもなかった。
少し間違えれば、私はあっさりこの場所から落っこちてしまう。物理的にじゃない。立場というか、居場所を失くす。
ほんの数時間前まで、麻子や航平と話していた会話の内容が蘇った。私は脩さんと距離をとる準備をすると言ったはずだ。そうでなければいけないと、半ば諦めに近い感覚も覚えていた。
でも、そう簡単にはいかないかもしれない。離れるのが難しくなるとかじゃなくて、私が望むような形にすることが。その確信をいま持っている。
途中で乗り込む人もないままに、エレベータが止まった。三十五階。点滅するランプの赤が、私を責め立てている。
完璧なエスコートで私を目的地まで運んでくれる三澄さんの足元を、何気なしに眺める。
何か考えなければ。何を? いまさら何を考えるのだろう。
ついて着てくれた麻子には、言えなかったことがあるのだ。
私が三澄さんに電話をもらった時点で感じた違和感があることを。
「――で、ここには誰が待っているんですか?」
私は切り出した。黙ってこのまま先に行くよりも、先に気分を楽にしたかった。
三澄さんが、部屋の並ぶ廊下の途中で立ち止まる。
恐ろしいくらいにゆっくりと振り返って、何でもないような顔をしている私を眺めて、ふと笑った。最初から浮かべていた当たり障りのない微笑みではなく、何かが少し剥がれ落ちたみたいな風に。多少の驚きと、私への純粋な好奇心がのぞいている。こういう顔をすると脩さんと同年代の、二十代半ばの青年らしさが際立つ。ビジネスマンとして取り繕った表情を剥がせたことで、私もちょっとだけこの後への怖気を忘れることが出来た。
三澄さんは何も取り繕わなかった。その余裕はやはりさすがは脩さんの知人だなぁと思わされた。
「あなたは不思議な人ですね。高校生であるのは変わりないはずなのに」
「脩さんほどじゃないですから」
“不思議さん”とあだ名した相手に勝っているなんて有り得ない。
それもそうですねと三澄さんは一拍置いて、私が待っていた言葉を発してくれた。
「佐野の体調不良は嘘です。――あなたに会いたがっている人物がいるので、お呼び立てしました」
私はもう、三澄さんには何も聞かなかった。
再び歩き出したその先、しばらくして三五〇九の部屋番号に辿りつく。
三澄さんはドアをノックする前に、私に情けをかけてくれた。わずかな種明かしが、何かの助けになるわけじゃないのだけれど。それでも気に掛けるくらいには、私は憐れで弱々しそうに見えたのかもしれない。
「ここで、我が社の代表がお待ちです」
一つ頷いた私を見て、三澄さんが拳でドアを叩いた。