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12/15 加筆修正
今回の“お籠り”は随分とかかったみたいだった。
脩さんは目に見えて日に日に疲労を色濃くしていった。
これが毎回のこととはいえ、日常のやけに微笑んでばかりの姿を見慣れた後だと、陰りのあるちょっと病んだような姿が新鮮だったりする。
どちらかというと、こんな姿が本来の脩さんというか、普段があまりにも完全無敵な自己完結の人間だからかな、弱っているところを見ると少し嬉しいような……。
でもそれだって、しばらく見れば普通に心配になる。
呆れるのは、宣言通りにそれまでと同じ分量の家事をこなして、私の世話を焼こうとすることだった。もう半分以上は意地になっているとしか思えない。
それじゃあ私もここにいるなんて無理です!と言い放って、朝食とお弁当を作らせるのは諦めさせた。私だって、普段はしてもらってばかりだけれど、別に針より重たいものが持てないお育ちじゃないんだし。まぁ、それでも夕食だけは任せてもらえなかった。生き甲斐を奪うなとばかりに猛反対。本当によくわからないない人だなぁ。
脩さんのお仕事集中期間――“お籠り”が明けたのは、開始から五日後。私は自分自身の家から三週間遠ざかっている計算になっていた、日曜日の朝。
相変わらず携帯電話は鳴らないから、母さんはまだ家に帰ってないらしい。いや、帰っていても娘の不在など気にしていないのかも。うちはうちでいろいろあるのだ。
仕事明けに張り切って朝食を作る人なんてどうかと思うけど、寝不足です!っていう文字でも浮かんでそうな顔色に脩さんは有無を言わせぬ迫力をまとって、私をダイニングに黙って座らせた。遅めの朝食として具だくさんの野菜スープとフレンチトーストを作ってくれて、私はそれを飽きれつつも美味しくいただくしかない。まぁ、美味しいのだけど、素直に喜びづらい。
そこに珍しく、脩さんの私用携帯電話が着信を知らせる。仕事の連絡事項はパソコンのメールに来るみたいだし、脩さんの生活の中で携帯電話が活用されるのは私との連絡くらいだ。
というか、何気に脩さんはそういった外界との連絡手段を嫌っているような……? この人、この顔で本当の引き籠りなんじゃないだろうなとちょっとばかり疑ってしまう。
いや、実際には「慧香のため」「慧香が心配」と二言目には私の名前を出して何かと外出はしているんだけれど。
でも不思議なことに、私はこのマンションに誰かが脩さんを訪ねてくるのを見たことはないし、いったいどういう交友関係を持っているのかも知らない。知ってしまえばそれはそれでまずい気もするけど、これだけ二人っきりの閉じられた生活っぷりもどうなんだろうか。
なんとなく横目で脩さんを見たら、何か不機嫌そうな顔で電話に出ている。どうやら着信相手がお気に召さないらしいけど。
「なに?」
信じられないほどぶっきらぼうな声に、いったい何事かと思ってしまった。
あなたそんな爽やか好青年な風貌で、その反抗期の男子高校生みたいな態度は何ですか!
「会社? 行くのは構わないけど何で……は? 嫌だよ。会社の“ウリ”とやらはいいのか? ――勝手だな。迎え? いらないよ。わかったって。行く。自分で行くから……」
はぁ、と溜息と一緒に電話を切った脩さんは、すっかりぬるくなったコーヒーを一口飲んだ。
「何か面倒事?」
「ん? ……まぁ、気が乗らないことではあるね」
眉間のあたりを指先でもみほぐす仕草。あー、疲れてるよね。そりゃそうだ。
私という存在に信じられないくらいの集中力を見せる脩さんだけど、“お籠り”が始まると同じだけの情熱を仕事にも傾ける。私が困るのは、そのエネルギーの比率が半々に振り分けるんじゃなくて、二百パーセントに稼働率が上がってしまうことだ。私と仕事に百ずつ。それで倒れずにやりきるのが謎。今にも倒れそうであることは間違いないんだけど……。
それなのに呼び出しとは、話からいくと会社のようだけどどういうわけだろう。
「すぐに行くの?」
「いいや。十八時からだよ」
二十四時間制で時間を言う脩さん。今が午前十時だからまだまだ余裕がある。
「じゃあそれまではたっぷり寝ておいたら?」
私の提案に、んーと脩さんは気のない返事。
「……慧香の予定はなんなの」
「今日は麻子と航平と買い物」
航平というのは麻子の幼なじみだ。私と違ってそこそこのお嬢様である麻子と同じように、航平もお育ちはいい。製薬会社重役の令嬢と大病院の子息が幼なじみなんて、世の中はよくできるていると思う。二人は胎児時代からの付き合いだと言うから筋金入りだ。
航平も私たちと同じ弥代学院に通っている。とはいっても男女のクラスはきっちり分けられているし、合同授業もほとんどない。おまけに航平は寮生活を送っているから、ゆっくりとおしゃべりを楽しんだりするには休日が一番最適だった。
「だから脩さんは私に気を遣わなくていいよ。目覚ましセットして気を付けて行って来てね」
「後半は俺のセリフだけどね」
仕方ないか、と脩さんは頷く。
あぁ、予定を入れておいて良かった。“お籠り”が終わっているにしろ終わってないにしろ、私が家に居れば脩さんはちょいちょい私に構いたがるから、事前に計画しておいたのだ。
いくらお金に困っていない生活とは言っても、やはりそこは社会人として仕事は大事にしてもらわねば。
そしてそれ以上に、自分の体を労わるべきです。例えるなら、ペットと戯れすぎて筋肉痛になる休日のサラリーマンみたいな? そんな間抜けな事態だけは私も回避してあげたい。
私が何を考えているのか、脩さんはわかってるんだろうか。……わかってるんだろうなぁ。
「出かける場所は?」
「麻子がジャケットを買いたいって言ってたからそれに付き合うつもり。その後は遅めのランチでもして、ちょっとぶらぶらしてカフェでも入って、またぶらぶらする」
麻子がお気に入りのショップが並んでいるあたりの地名を上げると、わかったと脩さんは頷いた。
「お小遣いあげようか?」
「冗談。脩さんは私の親じゃないでしょ」
「言ってみただけだよ」
本当にそうなんだろうな? 脩さんという人は本気とそうじゃないときの境目が本当に曖昧というか、いつでも本気な気がしてしまう。
でも、それでもお小遣いなんて駄目に決まってる。もらう義理のない関係なんだし(そのはず)、何より金銭の受け渡しがおおっぴらに行われた場合、それはもう明らかに援助交際だよ。交際の中身は微妙だけれども。むしろ脩さんにたいした利益のない今の関係の方が、援助交際より性質悪いなぁと思わなくもない。
ちなみに食費やら光熱費やら、脩さんのところでかかっている金額はだいたいのところを計算して渡している。脩さんの自己申告だから怪しいところだけれど、私が後ろ暗い思いをしてまでこんな生活出来ないことを、ちゃんとわかってくれているんだと思う。やや非常識な日々に流されているとは言え、私は別に非行に走りたいわけでも、周囲から白い眼で見られたいわけでもない。
午後いっぱいはちゃんと寝るように脩さんに言うと、わかったよと微笑まれた。
本当に、ちゃんと寝てよ?
この気持ちだけは伝わっている気がしない。脩さんが私を心配でたまらないと言い張るように、私も脩さんという人のことが心配だってこと。
始めこそ、てんで掴みどころのない性格に警戒していた頃もあったのだけど、完全な理解を放棄してからはすっかり楽になった。何をすれば嬉しがって、何をすれば顔をしかめるのか。その脳内構造を好ましい意味で百パーセント理解するのは無理だけど、パターンとして覚えてしまえば、脩さんとの生活はひどく安心できた。脩さんにとって私は情欲の対象でもなく、でもただの友人にしては束縛が厳しい。
私が結局のところ家に帰らないのは、脩さんが言うからとか、電話がかかってこないからとかじゃないんだなぁ……帰りたくないから、ここが居心地良いから居てしまうんだ。
この場所に居て守ってくれる脩さんに、何の情も沸かないはずがない。たぶん、私の中ではかなりの重要な位置を占めている人なのだと思う。
「あまり遅くなっては駄目だよ」
「うん。気を付ける」
素直に頷くことができる。
理解不能なほどに私を大事にしたがる脩さんの、そこにどんな意図があるかはわからない。 それでも同じくらいに脩さんを大事にしたいと思う。平和ボケしている自分を自覚しているけれど。
何かあったら連絡することと厳命されながら、私は支度を整えて正午に家を出た。
脩さんが言っていること自体は母親か父親のようだ。これで本当の家族なら――兄か何かだったら――私も現状にすんなり納得がいくのに、とやはり考えずにはいられなかった。
でもそれは、赤の他人に甘え倒している自分をどうにか救ってやりたいだけの、本当に勝手な想いでしかないことを、私だって気づいている。