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 食べるのにも飲むのにも痛みが走る傷が癒えるのに、およそ一週間。手首にくっきり残った赤紫の指痕が消えるのにも同じくらいかかった。

 それを見た麻子と航平の追求は、私を心配してのことだとわかっていても鬱陶しかった。

 だって、JUPITER社長に面会の上がっつり威嚇されたーとか、あの人は実は副社長らしいよーとか、その後の展開でキレちゃったーとか、唇を噛まれてあまつさえ舌まで入れられたーとか、一方で恋心に気づいちゃったーとか……もろもろ言えるわけもなく。

 沈黙を守っていればいるほど二人の想像力は膨らみ、強姦疑惑が持ち上がったあたりにはさすがに一部始終を説明せざるを得なくなった。

 私が説明する気になったのは、もうすでに一ヶ月が経ってからだ。あの直後は生々しさが薄れもしなかったし、私の頭を整理する必要だってあった。

 海棠さんとの会話の内容と、他言無用を約束してもらってからのあの人の肩書公開。ここまでは何でもないことだ。

 問題は車中のこと。さすがに包み隠さずというわけにはいかず、あの人との間に理解しがたい溝が出来、そのままの勢いでマンションも出てきたとだけ言ったんだけど――それで済むわけもなかった。

 唇や手首の原因こそが最大の問題とばかりに責め立てられ、薄々考えがまとまっていた麻子の一言で吐くことになった。


「キスでもされたわけ?!」

「……あれはそんなロマンチックな言葉じゃ表せませんが?」

「本気かよ――」

 呆然とした航平の呟きに、ぶんぶんと首を振る。だから違うと言っている!

「噛まれたんです」

「そんなにディープだったの!」

「麻子……」

「アサ!」

「ごめんって。二人してそんなに睨まなくてもいいじゃない」

「私だっていろいろ衝撃を受けてるの。ちょっとは気遣ってよ」

「……俺は吐き気がするんだが」

「最大限の気遣いを見せてるでしょ。慧香がいいって言うなら、いますぐ殴りに行ってもいいのよ。私はむしろそうしたい。あ、航平ってば吐くならどっか行って」

 声を低めた麻子に本気を感じ取って、結構ですと言っておいた。


 だいたいあれがキス? 冗談言ってはいけません。私にとってもあの人にとっても、そんな艶っぽいものじゃなかった。恋情も情欲も欠片もない、込められていたとしたら殺意だ。呼吸をふさいで意識を飛ばすための手段でしかなかった。


 治ったはずの唇に痛みが走った気がして、私はそこを抑える。お互いの混ざり合った血の味がなかなか消えなかったように、感覚もまた遠くならない。思い出すと背筋に寒気を感じる。

 あれが本当にキスであったなら、私は状況も考えずに甘い思考を滲ませたかもしれない。自覚したての恋心は、腫物注意のレッテルでも貼っておくべきなほどに敏感で、好きな人に唇をくっ付けられれば赤面と微熱でも発症しただろう。

 でも麻子に言ったように、まず噛まれたのだ。噛み返しても怯まないアレに、甘さを感じるなんて無理に決まっている。あんなのでもうっとりするのは余程のM体質か、愛することこそすべてと胸を張って言える物語のヒロインのどちらかだと思う。私は痛いの嫌いですから。愛しているから何でもいいなんて言えませんから。


「殴られたとかじゃないのね?」

 念を押されて強く頷いた。誤解されて本当に殴りに行かれても困る。

 マンションを出て家に帰ったら、母さんはやっぱり帰ってなかった。高校進学と同時に料理は頼まなくなったものの、相変わらず週に二回ほど家政婦さんが通っていて、掃除やら日用品の買い出しやらは済ませてくれる。おかげで三週間分の埃と格闘することもなく、何の変わり映えもしない寒々しい空気に満ちた家に、ここはまるで時間が止まっているようだと思った。


 この一ヶ月、もちろんあの人からの連絡はない。あっても困る。

 別れの挨拶もなしに出て来たことに罪悪感を感じもしたけれど、よく考えてみれば、すんなりと出れた時点で向こうも了承したということだ。本当に行かせたくないならば、拘束でも監禁でもしただろう。それこそがあの人の徹底ぶりだと思う。

 顔を合わせないことを選んだ相手に、何も感じないわけじゃない。だって好きだと思ってしまってからは、きっとどんな行動を取られても私にとっては一大事だ。これから出来るのは、早くに思い出に変えてしまうことだけ。クリスマスから始まった不思議な日々を、笑えるような物語として誰かに語ってしまえる日を待つだけだ。


「時間が来たんだよ」


 あのときにも思ったことを口に出した。訝しげに見つめる二人に、私は笑って見せた。


「夢は必ず覚めるしね」






   ***






 カレンダーが十二月に入り、寒さが厳しくなって来た。

 中学生だった去年よりは大人びたデザインのコートを羽織って、家路に着こうと門を出たとき――名前を呼ばれた。

 ふと顔を巡らせると、声の記憶と同じ顔を見つける。


「お久しぶりです、谷口慧香さん」


 細いフレーム越しに瞳を笑ませる三澄さんは、何だか困っているみたいに見える。実際は学校周辺の待ち伏せ率の高さに、私の方が困っているに決まってるけど。

 相変わらずしっかりとしたビジネススーツを爽やかに着こなした三澄さんは、金持ち学校の校門前に立つと浮くのですよ。

「三澄さん、どうしたんですか。海棠さんがまた何か?」

 もう大切なビジネスパートナーとの関わりがないことなんて調査済みのはず。内容はともかく海棠さんの思惑通りに運んで良かったよねーと、面白くないことを思っていただけに、私の口調はぞんざいだった。別に三澄さんが悪いわけじゃない。誰も悪くない。でも私は、そう容易く大人にはなれない。

 私の態度に気分を害するでもなく、逆に申し訳なさそうに眉根を下げる三澄さんの姿に、自己反省が喚起された。そうだよ、やっぱり八つ当たりなんて良くないよね。それもこんなマトモそうな人に向かって。

 ごめんなさいと謝ろうとしたとき、三澄さんの背後から姿を現した人物に、私は目を吸い寄せられた。その人は華奢な手で三澄さんの肩を叩くと、私の前にするりと立つ。


「ごめんなさい。三澄くんに案内を頼んだのは私なのよ」


 落ち着いたアルトの声でそう言ったのは、黒い髪を丁寧に巻いて、少し派手なくらいに化粧をしていても下品に感じない知的美人だった。年齢は三十歳前後くらい。女性にしては高めな身長にさらに十センチはあるパンプスを履き、サテンのタイトスカートから覗く脚がとても綺麗だ。見ようによっては迫力がある。男性がしり込みしかねないほどオーラがあった。

 思わずじっくり観察してしまった私に、その人は薄い唇を印象よりずっと愛想よくゆるめた。

「初めまして。そう言っても、私はあなたのことをずっと聞かされていたから、他人のような気がしないのだけど」

「えっと……初めまして?」

 一応返さねばと挨拶するけど、語尾が上がってしまった。あからさまに首を傾げる私に、本当に可愛いわねなんてくすくす笑っていらっしゃる。

 助けを求めるように三澄さんを見ると、やれやれと言わんばかりに眼鏡のブリッジを上げている。

「慧香さん、申し訳ありません。どうしてもお会いしたいと相談を受けまして……」

「三澄くんは相当嫌がっていたんだけど、もうほとんど脅しちゃったのよ。怒らないであげてね」

 怒りませんよ。三澄さんはたぶん私が知る限りで一番の常識人、そして一番の器用貧乏タイプと見てますので。むしろ押しばっかり強い人に恵まれているみたいで同情します。


 こくこくと頷いた私に、知的美人さんはにこりと笑みを深めた。

 そして白魚のような手を伸ばし、握手を求めてくる。


「慧香ちゃんって呼んでいいかしら。――私は海棠詠美。一応はあの馬鹿男の妻。旧姓は佐野。ばっちり血の繋がった佐野脩の姉よ」




 爆弾を投下してほぼ無理矢理に私の手を握って上下に振った美人――詠美さん。

 私が一番衝撃を受けたのは、じゃあ海棠さんはあの人の義兄かぁ、相関図が濃すぎる……ということだった。

 








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