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自分のことを“詐欺師”呼ばわりされても、脩さんの顔に大きな感情の動きは見られなかった。強いて言えば、少しばかり目を見開いて、私を不思議そうに見つめただけ。
「自覚がないの?」
訊いておいて、そうかもしれないと私の心が答えた。
脩さんの本性はけして悪人ではない。そのくらいはわかっている。けれど自覚もないままに誰かを試したり、その心を否定したりするのなら、それはひどく悲しい所業だと思った。脩さんにとっても、試されて否定される側にとっても。
出会って十ヶ月、脩さんとの会話がときどき成り立たないのは、彼が自由人とでも言うべき人間だからだと思っていた。
けれどいま、確信を持ってそれを否と断じることが出来る。
脩さんは全然自由じゃない。私の理解できないモノに縛られている。
「……脩さんは、私にどうして欲しい? 何を言って欲しい? 私の何が欲しい?」
「何も。慧香は何もしなくたっていいんだ」
「――嘘ばっかりね」
私は笑って見せた。こんな顔はしたことがないと自分でも自覚するくらい、きっと歪んで醜い笑顔だ。
「脩さんは、本当に、嘘つき」
ぶつ切りの言葉を投げつければ、そこでようやく脩さんの瞳が陰った。いつでも光をともしていた悪戯っ子のような色はどこにもなく、ただぽっかりと黒い二つの円になる。
暗い車内の空気が冷え込んで、濃密な毒素が充満するように呼吸が苦しくなった。
脩さんを傷つけたいわけじゃないと涙を流す私と、傷つけて泣かせてやりたいと笑う私。脳内でその二人が分裂して増殖して、激しく主張をがなり立てている。天使と悪魔。そんな対比を思いついたけれど、いったいどちらが天使で、どちらが悪魔? 善悪を判断してくれるのは誰だろう。居るのならばいまの私を止めてほしい。
「だったら私を追い出して」
吐き出す先から後悔する言葉に、本当の意味で傷つくのは誰だろう。脩さん? 私?
「私に何も望まないなら、側にいる必要なんてどこにもない」
「そんなこと、」
「あるよ。そんなこと、あるのよ」
私を頑なに家に帰さない脩さん。その理由をずっと訊かずにいた。それでいいのだと思っていた。なぜなら「そこに理由があるはずだ」と思っていたから。良い理由か、悪い理由か、後者じゃないことを祈っていたから――ううん、前者であるとなぜか確信していた。
でもいま、その前提条件が揺らいでいる。「理由などない」または「その理由はけして理解出来ない」。どちらであっても私には耐えがたい。
戯れに注がれた愛情にも似た数々の行いが、偽物だと言われたならどうしようか。私は本当の家から逃げ出した臆病者なのに、箱庭さえも張りぼてだったなら、何を信じればいいのかもわからない。そして、もしも脩さんの心が本当の意味で理解できないものだったなら、私はこれから先もけして、彼のために言葉を紡ぐことも、他の何も出来はしない。彼だけのお人形でいなければいけない。
ああ、そうか。
唐突に落ちてきた一つの答えは、私を慰めたりしなかった。もう今さら遅いようにしか思えなくて、いっそ絶望的な気分になる。そして、私は馬鹿だと確信した。
――脩さんが好きだ。
あの日、「君は独りぼっちだよ」と突き落としたくせに、私を腕の中で泣かせてくれたときから。初めて会うような“大人”が私を愛しんでくれているように感じて、私は脩さんを好きになっていた。
なんて滑稽さだろう。世間で嘲笑われる小娘の恋にしたって馬鹿馬鹿しい。瞳にせり上がってくる熱を抑え込むのに忙しい私の代わりに、誰か盛大に笑ってくれないかな。
ついに零れ落ちてしまった私の涙を見て、脩さんの暗い瞳が、すこしばかり動揺したような気がした。思わずと言った感じで伸ばされた指先から、私は嫌だと逃げる。
もうあの日を繰り返すことはできない。どんなに寂しくても、恋しくても――。
「君を追い出したりしない」
「なら私が出てく」
「駄目だよ」
断言するその言葉にイラついた。駄目なはずない。明日、私が居た場所に違う誰かが立っていたって、脩さんにとってはプラスにもマイナスにもならない。
「脩さんに私を縛る権利はないでしょ」
「慧香、急にどうしたんだ?」
心底わからないという顔で、脩さんの綺麗な顔が歪んだ。傷ついているのかもしれない。でも今の私は優しい気分からはほど遠くて、思いやりの欠片も抱けない。
ただ、楽になりたいだけ。
「急じゃない……もう私は充分に、脩さんのお遊びに付き合ったということよ」
「……遊び?」
「まだ足りないなら、別な子にして。私じゃなくてもいいでしょ。――私も、脩さんじゃなくてもいいの」
嘘つきに嘘をつく。けして自分を騙せないほど拙いくせに、それは妙にリアルで冷たい響きを宿していた。自分の言葉が怖い。
「……慧香は俺が嫌になったんだ」
この車で十数分前に聞いたセリフが、今度は断定系になった。
「嫌になったんじゃないよ」
「慧香は俺じゃなくてもいいんでしょ」
「脩さんは私じゃなくてもいいからね」
「――俺には慧香がわからない」
――その言葉にどれほど私が痛みを感じるか、わからないんだものね。
時間が来たと思った。味わったことないほど甘くて、でも最高に苦い夢が終わる時間。
乱暴に涙を拭った私がシートベルトを外したとき、脩さんが苦しげに息を飲むのを感じた。
「っ……駄目だ。行くな、慧香!」
狼狽する脩さんの瞳が私の視界に映り込む。毎晩一緒に眠ったベッドの上みたいに近い位置に脩さんがいて、私の腕をきつく握りこんできた。みしりと骨が軋むほどに強い。
「いっ……」
「行かせない」
「脩さん、痛い!」
止まったはずの涙がまたぶり返してくるのを感じながら、私は脩さんから離れようと身をよじった。ぎっちりと握りこまれた手首の皮膚が引き攣れて、思わず小さな悲鳴が漏れる。
顎に鈍い痛みが与えられ、後頭部を座席に押し付けられるのと同時に、私の唇が噛まれた。冷たくて強引な脩さんの感触。驚愕で思わず喘いた隙間から滑り込んだ舌が、噛み切られた傷から溢れる私の血の味を口内に広げた。
私を座席に縫いとめるように体重をかけてくる脩さんの顔は、街灯を背にしていて真っ黒なのに、瞳だけは暗い炎を灯して燃えているようだった。
何かの感情が湧くよりも先に、私はとにかく手足を暴れさせながら、私の酸素を奪い尽くすものに歯を立てた。ふっと動きが止まるけれど、唇を合わせたまま痛がる素振りも見せず、脩さんは私から退かなかった。私の血と、脩さんの血が混じる。
そこでようやく感情が追い付いた。怖い。怖い。怖い。でもそれに以上に悲しくて――悔しい。
先に折れたのはやはり私で、突き立てた歯の力は保てなかった。
衝動的にでも、けして脩さんの舌を噛み切るほどには力を入れられない私は、きっと最初から負けなのだ。好きになったときに勝てないことが決まっていた。
私は目を閉じた。その拍子に頬を伝った涙の筋を、ついに脩さんが拭った。顎を押さえつける手がそれで外されたけれど、もう抵抗する気は起きなかった。
視界から脩さんを消すとき、その瞳が初めて見るほどに沈んでいて可哀そうだと思った。そう思う自分が嫌だった。
私がそこで気を失ったのに気づいたのは、翌日の朝。午前五時二十分。カーテンの隙間から覗いた外はまだ暗かった。
初めて勉強部屋のシングルベッドに寝かされていた私は、買い物に出かけた服装のまま。のろのろと制服を着て、財布と携帯電話、勉強道具をすべて鞄に突っ込んで部屋を出た。
リビングを通り抜けるとき、ガラステーブルに鍵を置いた。
私以外に動くものがない。家主がいるのかいないかもわからなかった。
靴を履いて玄関扉を出て数歩歩いた背後で、オートロックが作動する無機質な音を聞いた。