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「慧香は俺が嫌になった?」
「……どうして?」
ホテルに預けていた脩さんの車に乗り込み、家路につくその途中のことだった。
それまでは脩さんは珍しく無言を貫いていて、何か重たい沈黙が落ちていたところだった。
脩さんの横顔は対向車のライトでぼんやりと照らされて、その硬い表情が嫌でも目に入った。笑顔の浮かんでいない顔など、ほとんど見たことがないのに。
「久具に聞いたんでしょ。俺がどこの、どんな“佐野脩”なのか」
「JUPITERの取締役副社長で、最高技術顧問っていう特殊な肩書を持ってて、おまけに海棠さんと同じく株式の三割を保有?」
何でもないことのように言った――つもり。そう聞こえてくれればいいと思う。
海棠さんが私にけらけらと笑いながら話したのは、ざっくりと言えば会社情報には載っていない脩さんの存在証明だった。インターネットサイトを見ても、“取締役副社長”の欄に記載されているのは脩さんの名前だけで、他の役員のように顔写真も載ってなければ、プロフィールもほとんどない。メディアに出ることもない。年齢も学歴も不明の、社長の相棒にして天才技術者――そういう不透明さが、世間の興味を誘うのに一役買っていた部分もあると。
ついでに、株主はおろか社員でさえ脩さんを認知している人間はかなり少ないらしい。十数人の取締役員と、プロジェクトで度々組む人間くらいしか顔を知らないでいる。社長室と同じ階に専用の仕事部屋が用意されていて、出社したとしてもそこに籠ったり、あるいは違う名前を使って各プロジェクトの末端で派遣プログラマーに混じってコードを書いていたり。
その働きぶりは自由気まま。それが許されてしまうほどには、佐野脩という人間はJUPITERにとって掛け替えがなのだと説明された。
そして、そんな男の側に何も持たない小娘がうろつくのか――とプレッシャーも与えられつつ、肉食獣のような笑みを向けられたのだ。
はぁ、と脩さんの息を吐く音に、私は意識を戻した。
「……三澄の様子がおかしいとは思ってたんだ。あいつはけっこう顔に出るしね。でも――責められないのはわかってる。黙ってた俺が悪いんだ。慧香にも、久具にも」
滅多なことでは自己反省などしない脩さんなのに……。
それほどまでに、今回の一件はショックだったんだろうか。
けど脩さんそれは、いったい何を恐れてのこと――?
「えと……私のことを聞かされてなかった海棠さんがどう思ったかはわからないけどさ、私は別に悲しかったり怒ってたりもしないよ? ちょっとは驚いたけど、それだけって言うか……私が脩さんを見る目に、何も変わるところなんてないと思う」
だからもういいんだよと首を傾げると、脩さんがハンドルを握りながら横目で私を見たのを感じた。
……笑ってくれるかと思ったのに、そんな気配は微塵もない。本当にどうしたものだろう。いつも鬱陶しいほどにニコニコしている人が、何を真剣に悩んでいるんだろう。というか、何かに苛立っているんじゃないか、この人。
「慧香はさ、」
ふっと零すように呼ばれて、私は何だろうかと目を見張る。
「俺のことは気にならない?」
「え……?」
質問の意味が、わからない。それより、脳内に受け付けていない。何だ? 今この人、何て言ったんだ?
私の頭が軽くショートしたことなんかお構いなしに、聞いたこともない乱暴な口調で脩さんは続けた。
「今までも、慧香は俺に何も言わなかった。それは俺を気づかってくれてるからだってわかってた。――でも、こうなってもまだ、俺に訊きたいことはないの? 俺に望んでいることはない? 慧香にとっては、俺の何が重要なんだろう。俺は何度もそれを考えるのに、考えてきたのに、慧香は全然求めてくれないね」
何も言えないままに、私は固まってしまった。
言葉を欲しがっているのはわかる。けれど脩さんが言う意味がわからない。
――求めてくれないって何よ。
これ以上、何を求めろと言うの。
海棠さんに端降りながらでも話したあの馴れ初めこそが、私が脩さんの側にいる最大にして唯一の理由だ。
私は家に、母さんの隣に、自分の居場所と言うものを作るのに失敗した。それは生まれたそのときから決まっていたことかもしれないし(可能性は高いけれど)、成長する過程で私自身でどうにか出来ていたかもしれない。けれどいまさらの修復は出来ないし、望まない。
そんな中で、見ず知らずの私を拾って置いてくれたのが脩さん。突拍子もなくて犯罪気味で、少し地悪だったかもしれないけれど――それでも私を泣かせてくれて、包んでくれて、温めてくれた。
どんな思惑や意図があるかなんてどうでもいいくらい、私は脩さんの側にいることに安心してしまったというのに。
「私にとって重要なのは……脩さんが居てくれることだよ」
欲しがられている言葉が何か知らないままに、それでも精一杯にそういうしかない。
私が脩さんに求めることのすべてがそれだというのに、どう表現すればいいのか。
でも脩さんは頷かなかった。
何一つ納得しない気配を纏って、前方を睨みつけている。
「それは俺が誰であってもいいの?」
「脩さんは、脩さんでしょう?」
「……意味がわからない」
「どうして? ――ねえ、ちょっと停めてよ」
徐々にスピードを落として、脩さんは夜道の隅に滑らかに停車させた。
わずかな慣性で起きた揺れを感じるか感じないかの間で、私は脩さんの腕に触れる。
「脩さん、何が言いたいの?」
私に顔を向けた脩さんはやはり不機嫌で、でも私にはその感情がどういった経路で発露しているのかがわからない。それが怖い。不安だ。何を見逃しているっていうの。
「慧香にとっての俺は、どうでもいいのかもしれないってことだよ」
「……何それ」
「俺のことを知らなくてもいいんでしょ?」
「脩さんが知ってほしいと思う以上を、望まないだけだよ」
「つまりたいして興味がないんだ」
「っ……そうじゃない」
「そういうことだよ」
「違う」
「違わない――俺が知らせないこととは別に、慧香は俺のことを知りたくなかったんだ」
突き放すような口調に、私は喉の渇きを感じた。
なぜ? なぜこういうことになったの?
脩さんが私を責めている。それは予想もしなかったことだ。
海棠さんと対面している間に、それほどの焦りや不安を感じなかったのは、必ず脩さんが来てくれるとわかっていたからだ。そして軽い謝罪の後に慰めてくれるだろう。きっとそのまま家に帰って、これまでと違う明日を迎えるにしたって、きっと脩さんだけは私の味方でいてくれる。これまでと変わらない日々を過ごすために力を尽くしてくれる――そう思っていたから。
――ああ、なんだ。私はひどい甘ったれじゃないか。
多くを望まないなんて言いながら、一番大事なところを全部任せきりにして。なんて馬鹿な子供だろう。これでは本当にただのお荷物だ。自分に呆れてしまう。
……けれど、脩さんが怒っているのはそういうことですらないのだと、私は気づいた。そして、同じように怒りを感じる。
だって気づいてしまったそれは、脩さんの裏切りの証拠と言えるのじゃない?
「――脩さんは詐欺師になれるよ」
「何が……?」
「自分が悪いなんて、少しも思ってないんでしょ」
やることなすこと完璧にこなす脩さんが、今回の海棠さんの動きを察知出来なかったわけがあるだろうか。放っておけばこういう事態になると計算出来なかったなんて、それこそ嘘くさい。というか、嘘だ。
私はかつてないほどの憤りを、脩さんに感じていた。
――この人は私を嵌めたんだ。
海棠さんが私を間近で観察したがることを予測しておきながら、それに気づかないふりをした。私が大人しくその目にさらされることを選ぶことも、きっと知っていた。
きっと私には理解できない脩さんの仕組みによって、私や海棠さんたちは踊らされた。
何のために? いまはっきりしていることは一つだけだ。
私が脩さんに向ける感情に一体どんな名前がつくにしろ――恋だろうが思慕だろうが――脩さんはまずもって、そんなものがあること自体を信じてはいなかったのだ。
脩さんがしてくれることに「ありがとう」を重ねても、笑顔を返しても、脩さん自身の価値観の中ではたいした意味を持たなかった。
あの冬の日に私は脩さんの無条件で信用したけれど、脩さんはそうじゃなかった。だから今になって痺れを切らして知りたがっているんだ。
――私が脩さんに求める条件と正確な欲求を、たぶん数値みたいな目に見えるもので。
けれど気付いてる?
脩さんが言ったことは、全部自分に返るってこと。
どんなにプロフィールとしての私を知っていても、脩さん自身が知ろうとして質問したことなんか、ただの一度だってないんだよ。