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さて、と男が声を出した。
「じゃタイゴさん、どうもありがとう。帰っていいですよ。というか帰って」
あっけらかんとそう言ってのけた男の顔には、微塵の罪悪感もない。店長は半ば諦めたような顔で肩を落とした。
「うわー、あんまりだ……。いや予想はしてたけどな。一応聞くけどその子はどうするつもりだ?」
「最低でも三日はここに居てもらう」
勝手に決められてしまう。それってどうなんだろうか。
「……本気か? まぁ今晩は仕方ないにしても、親御さんには連絡したんだろうな」
「してませんけど、たぶん問題ないですよ」
「そんなわけないだろ!」
「いや、そうでもないですって。――君のお母さんはいまニューヨークなんでしょ?」
何で知ってる!と私は一瞬ぞっとしたんだけど……気づいた。この人、メールを見たんだ。
見つめる私に肯定するように、男は自分のパンツのポケットから私の携帯電話を引っ張り出した。
「えーと、谷口慧香さん?」
「……はい」
渋々返事をする。この男にいまさら常識など求めたって無駄なようだ。きっと母さんみたいに、自分のルールで動いている。
「名前は鞄の中に入ってた手帳で確認した。携帯電話は連絡が入るかもしれないから預かった。ついでに君の家族の情報を調べるためにちょっとメールも読んだ」
言い訳の口調ではなく、淡々と事実だけを述べる報告には腹も立たなかった。
逆に店長の方が顔を青くしている。
「シュウくん、まずいって……」
「そう? まぁとにかく、現段階で君の安否を心配する人は身近にいないわけだね」
その言い方、本当に犯罪めいて聞こえる。元気になったところを解体して臓器でも売るつもりじゃないよね。
黙っているままの私を気にもせずに、男はまた一人ですべてを完結させたようだった。
「だったら俺が無断で君を預かったって問題にはならない」
綺麗な顔に似合わない乱暴な性格だ。すごく強引。こんな調子で生きてこられたことに驚きを覚える。
「え……そうなの? いや待て俺、なんかおかしいよな」
必死に常識というものを思い出そうとしている店長の姿は正しかったけれど、この状況では何の力にもなりそうもなかった。主導権を完全掌握しているのはこの拉致犯人だ。納得できない論理でも、言葉にしているのはただ店長が穏便に帰ることを望んでいるだけの話。これでも否と言うようならば、きっともっと悲鳴モノの手段を使うと思う。
……こんなに短い時間でそんな予測を立てられてしまうこの男は本当に問題だ。
でも実際、私が三日くらい姿をくらましても騒ぐ人間はどこにもいない。母さんは言うまでもなく、家政婦さんは雇い主の家族がどういう行動を取っても関係ないことにするし、学校も休んでいるいまとなっては先生や友達も不思議に思わない。
だからと言って喜んで男の世話になりたいわけじゃない。
でもいまの体調と目の前の男を考えると、とてもじゃないけれど逃げ切れる自信など少しも湧かなかった。それにと私は思った。逃げる先はいったいどこに……?
男はいっそ堂々としていた。
「外野さえうるさくなければ、問題なんか起きないでしょう。料理以外は俺が出来るんだし、この子は安全な場所で静養できる」
「シュウくんの意見は別にしてだな。常識的に考えて赤の他人の若い男の家に、女の子が一人っていうのはマズイだろ。それを安全とは称さない。谷口さんだっけ。彼女もそれは嫌だろうし」
「だから何でです?」
ようやくまともな意見にまでたどり着いた店長を、無邪気とも言っていい声がばっさり切り倒す。
どっと疲れたような店長に私も同情したくなった。
「あー、だからな? 周囲から見たら疑わしいわけだよ。……なんていうか、いかがわしい関係なんじゃないかってさ。女の子にそういう噂がついちゃ駄目だろう。もちろんシュウくんにとってもさ」
私を気づかいながらもはっきりと言った店長の言葉は間違いじゃない。事実がどうあったって、周りが好きに話を作ることを私は嫌でも思い知っている。
しかし男は強かった。次元が違う強さだった。
「そうですね。でも俺は彼女をどうこうする気はないし、彼女もされる気はない。その事実以上に大事なことなんてないでしょう? 言ってしまえば、噂一つで済むなら安いもんだと思うな。噂と嘘は重ねることが出来る」
……この人は本当に大人だろうか。
何より評判を気にするのが一般的な大人の姿だと思う。母さんが言う“ウケ”もその一つだ。それにこだわらなければ上手くやっていけないんだろう。大なり小なり子供にだってある。なのにこの人、安いって言っちゃったよ。自分が悪しざまに言われることが怖くないのかな。信じられない。
「でも、俺だって無理強いしたいわけじゃない。谷口慧香さん、君は帰りたい――?」
そこで言葉が終わったなら、私はきっと頷いていた。ここまでやってもらったお礼を言って、タクシーにでも乗って家路についただろう。二、三日寝れば風邪は治るのだから。
でも、男はひどかった。私のことを分かりすぎていた。
「――でも君は独りぼっちだよ」
あの家を思い出す。冷えたクリスマスディナーを思い出す。祝うモノなんて何もないのに、クリスマスなんてものが存在しないように扱ってくれたなら良かったのに、形だけ用意されているあの滑稽さは最低だと思ったのだ。
私は唯一と言っていい家族である母さんに逆らってる。あの光景は、その私の必死の努力を笑っているみたいだった。家族という存在を匂わせないではおれないメニュー。なのにそれを食べる人間は一人だけ。私がしていることも一緒なのかと感じた。一生懸命に母さんの心に傷でもいいから何かを付けようとしても、それをしたところで私の望む結果には絶対にならない。やはり母さんは私を見ないだろう。書類上の血縁関係以上に、つながることはきっと出来ない。
……嫌だ。今夜だけでもいい。絶対にあの家には帰りたくない。あの冷蔵庫をもう一度開けるなんて私には無理だ。
何の言葉も発せない私を、男は笑いもせずに抱き寄せた。
にこやかさを捨てた男の顔が、不思議と“大人”に見えた。私が会ったことのない大人が目の前にいる。
私は重たい両手を上げて、その服を掴む。抱きつくには何かが私を抑えたけれど、それは間違いなく縋る行為だった。私は見ず知らずの男に助けを求めてしまった。
顔を寄せるとほんの少しだけ、抱きしめられた腕の力が強まる。
いつの間にか店長は帰っていた。呆れられたかもしれないと思ったけれど、あまり気にはならなかった。
しばらくして顔を上げたところを、男の指先が目の下を拭ってくる。たっぷりと濡らしたその水を見て、私は自分が泣いたことにようやく気付いた。
恥ずかしさに気まずさを感じつつ、どうしようもない睡魔に襲われる。
風邪薬に涙とくればてきめんだった。おまけに夜も深まってきたからだろう。熱が上がってきているのがわかった。
そんな私に気づいて、男が毛布ごと私を抱き上げる。子供の用に軽々と運ばれていく先は、最初に目覚めた寝室だった。
水の入ったボウルを避けて、まずは椅子に落ちないよう腰かけさせられる。
ひとまず部屋を出て行った男は、布の塊を持って戻ってきた。そして寝室のクローゼットを開けて綿のシャツを取り出すと、乾いたタオルと一緒に私に渡す。
「着替え。見ないからしてて」
それだけ言うと、布の塊を広げ始めた。どうやらシーツを替えてくれるらしい。
ベッドメイクのために背を向ける男の後ろで、私はぎこちなく体を動かしながらタオルで体を拭いてシャツを着替えた。そんなに濡れていないと思っていたのだけれど、乾いたものを身に着けるとそうでもなかったみたいだ。
出来上がったところに男が私を支えながら、横たわるのを手伝ってくれた。
掛布団を顎の下まで引っ張り上げられ、子供のみたいにぽんぽんとリズムを作ってその上を軽く叩かれる。眠るまで側に居てくれるようだ。
なんでここまでするんだろう。この人にとってどんな意味があるんだろう。
襲ってくる眠気の中でも、浮かび上がる疑問は後を絶たなかった。けれど当初抱いたような危機感は彼方に去ってしまって、私にとって男はもうすでに庇護者になってしまった。
それでも、ただ一つだけ訊いてみることにする。
「……あなたは誰ですか――?」
暗くて静かな場所に落ちていく途中、男が密やかに笑ったのを感じた。そして耳元に寄せられた唇から、小さく答えがもたらされる。
『俺は佐野脩というんだよ』
しゅうさん、と呼んだ言葉は声にならないまま、私は男の前で二度目の意識を手放したのだった。
今度は疑わなかった。
きっとまた目を覚ますことを。
その時に――脩さんがが側にいることを。
思春期な慧香。十ヶ月後は少し落ち着いてます。
回想は一応ここで一区切りかと。