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かすかな声の応酬を感じとりながら、私は深い沼のような場所から覚醒した。
「どこ……?」
瞳を巡らした場所に見覚えはない。広い室内には自分が横たわっている大きなベッドが一つだけ。暗色の壁に取り付けられた間接照明が、薄暗い中をオレンジに染めている。殺風景な部屋だ。
どうしてこんな場所に寝かせられているんだろう――。
思いを馳せたところで、昼間の有り得ない出来事を思い出した。ああ……拉致られたんだっけ。
身を起こそうとすると、額から何かが落ちた。しめったタオルはおそらく熱冷ましで――ベッドサイドの椅子の上には冷水を溜めたボウルが置かれている。
頭は相変わらずぼんやりとして、目元に集まる熱にも変わりはなかったが、気を失うように寝る前のどうにもならない寒気や気持ちの悪さは薄らいでいた。
閉ざされた部屋の外からは、誰かの声のやり取りが聞こえている。
掛布団から体を出すと、すっと背筋を中心に鳥肌が立った。ふらつく足を叱咤して立ち上がろうとすると、自分が元の服を着ていないことに気づく。かなり大きめのシャツと、裾を折り曲げられたスウェット地のズボンを着せられているらしいのだ。間違いなく男物。
……うえぇー。
考え至った答えは、とてもじゃないけれど女子として受け入れがたい。
深く考えたら何か良くない行動を取りそうで、私はとにかく部屋の外で出ることを優先した。
壁伝いに体を支えながら、ドアノブを握る。そこに鍵がかかっていないことにほっとした。拉致の上に狭い室内に監禁だったら言葉もないところだった。
出てすぐの廊下の向かい側やこちらにはあと何部屋かあるようだ。廊下自体は片方が行き止まりで、もう片方がリビングへ続いているみたい。玄関に続いていないのだということに、少し気落ちする。このまま逃げ出せるほどには強気になれないのだけれど、気分の問題だ。
裸足で踏むフローリングの冷たさに身が縮んだ。
話し声のするリビング目指して進んで行って、その仕切りのドアを開けようとしたときに、向こう側から先に開いてしまう。
びくっと立ち止まった私は、拉致犯人と目を合わせてしまった。
「起きたね」
足音を聞きつけたんだろう。にこっと笑った男は、私をリビングに招き入れた。
――広い。二十畳くらいはある。
毛足の長いラグの上に、コーナータイプのソファにガラステーブル。馬鹿でかいテレビの横には、壁一面のCD・DVDラックと大きな本棚が設置されている。そのすべての配置に余裕があって、そのままダイニングキッチンへと続いていた。
そこに立つもう一つの人影を見て、私は目を見開いた。店長だ。
「よかった……無事だったんだ」
本当に安堵したというように嘆息して、店長はへなへなとその場にしゃがみ込んだ。男前が台無しだ。
「俺は本当に警察を呼ばなきゃいけないかと……」
「そこまで信用ないわけだ」
ぶつぶつと何かを呟く店長に、いつの間にか毛布とスポーツドリンクとスリッパを抱えた男が楽しげに笑った。
「そこ座って」
オフホワイトのソファを指されて、もう何の抵抗もわかずに腰かける。すると丁寧にキャップを外してスポーツドリンクを手渡され、毛布が肩にかけられた。
「飲んだ方がいいよ。汗かいてるから」
言われてみれば喉が渇いている。口をつけると冷たすぎず、胃がびっくりしないのでするすると飲めた。
そっちに集中しているうちに、手ずからスリッパを履かされる。丁重な扱いに居たたまれない。
「信用ってなぁ……俺はこんなぶっとんだ出来事に遭遇したのは初めてなんだ。だいたいシュウくんこそなんだ。俺の前でずっと猫でも被ってたのか?」
「猫?」
意味が分からないとばかりに男は首を傾げる。何だかそうすると同級生の男子のようにあどけなく見える。
「君と知り合って十年は経つけど、俺はなぜこのタイミングでこの家に訪れているんだ……?」
「仕方がないんだ。俺は野菜炒めしか作れない」
男が意味の分からないことを言ったかと思うと、店長がそうだったと動き出した。へたり込んでいたところを立ち上がり、キッチンの方へと向かう。
何事だと目を丸くする私に、斜め向かいに腰かけた男が言った。
「君の食事のことだよ。俺が料理出来たら良かったんだけど。タイゴさんがいて助かった」
しばらくすると、店長が小さい土鍋を鍋つかみで運んできた。
「鍋敷なんて無いよな。新聞とかは?」
「あ、これいいよ」
ガラステーブルに無造作に放ってあった何かの専門誌を惜しげもなく男が指差し、店長も躊躇せずに土鍋を置いた。なんかいろいろもったいないと思ってしまう。
そのままもう一度キッチンとを往復した店長は、御玉と木製の匙と御椀を持って来る。
「すごいよ。あれだけのキッチンに何もないとか。これ全部、俺の持ち込みだなんてさ」
「フライパンと鍋はあるよ」
「食器がなきゃ意味ないよな?」
「普段は外で食べてるから」
土鍋の蓋が開けられて、中から湯気が立ち昇る。
「玉子粥なんだけど、食べられそう?」
小ネギが散らされた御粥は美味しそうなんだけれど、あまり食欲はない。けれどわざわざ私のために作ってもらったんだと思えば、首を振るなんて出来なかった。
頷いたところに、匙を手渡される。御椀に少量よそわれて、よく冷ますように注意された。
何度か息を吹きかけて口に入れる。あったかくてとろりとした食感はわかるんだけど……どうも味が感じづらい。薄すぎる塩味な気がする。
「熱もあるし、味はわかんないかもね」
察したような男の言葉に、店長はああそうかと相槌を打った。
「でも薬も飲まないといけないから、食べられるだけ食べて。夜中にかけてまた熱は上がると思うしね」
拉致犯人の目的は本当に私の看病なんだろうか――?
そう思ってしまうくらいには甲斐甲斐しかった。至れり尽くせり。これが今日で会うのが二度目の人間だなんて思えない。
私がもそもそと食べている間に、男と店長は時間つぶしのように会話をする。
「シュウくんは野菜炒めしか作れないのか」
「まあ。あとは米を炊くことだけです」
「偏ってるなぁ」
「そういえば手料理自体にあまり縁がないなぁ。御粥も手作りを食べたことがない」
「え、なんで。すごい健康優良児だったのか?」
「いや。人一倍に手間のかかる子供でした。ことあるごとに寝込んでたけど、家族は忙しかったから。レトルトなら食べたことあるけど、あれは不味い」
「あぁ。だからコンビニで買ったりせずに俺を呼んだわけね」
「料理が出来る独身男で助かりましたよ。おまけに恋人もなし。今晩が暇だって胸を張る人間もそういませんよね?」
「もう俺は泣きたいよ……」
レトルトの御粥の方こそ私は食べたことがない。母さんの手料理なんて見たことすらないけど、物心ついたときから家の食事は家政婦さんが作っていた。
そこで思い出してしまう。今晩、あの冷蔵庫で冷やされ続けるクリスマスディナーの存在を――。
途端に御粥が重たくなった。口の中に広がっているデンプン質が気持ち悪く感じる。吐くほどではないけれど、飲み込むのがつらい。
顔色を変えたであろう私の背中を、すかさず男がさすった。あれだけ怖い思いをしたのに、いまでは不思議とその手が不快じゃない。
「もう限界? ……ああ、でもけっこう食べれたね」
極々小さい土鍋の三分の一ほどしか胃には入れれてないけれど、男の言葉に安堵した。何だろう。残したら怒られるとでも思っていたんだろうか、私は。
男が立ち上がって、ぬるいミネラルウォーターと市販の薬を持って来た。ぷちぷちっと錠剤が二粒出されて、私の手のひらに乗せられる。
「これで平気だと思うけど、明日も同じくらいの熱が出たら病院に連れて行くよ。」
渡された錠剤を大人しく飲みながら、ふと考えてしまう。
明日も同じくらいの熱が出たらと言うからには、明日も私と一緒にいる気か?
――……というか今晩はここに居させる気なの? 本当に?
クリスマスと呼ばれるこの夜に、私はなんて場所にいるんだろう……。そしてこの人、何してるんだろう?