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私がそのカフェを再び訪れたのは一週間後のことだった。初めて陽の明るいうちに訪れたそこは、いつもと様子が違っていた。世間はクリスマスだった。
カフェの中はカップルで賑わっていて、華やかで騒がしかった。いつもの席が空いていたことが奇跡みたいだったけれど、一週間ぶりに姿を見せた私にほっとした顔をした店長のことを考えると、もしかしたら席を取って置いてくれたのかもしれない。都合のいい考えかもしれないけれど。
私はこの日、勉強道具をテーブルに広げてはいなかった。全身が軋むようにダルかった。それ以上にそんな気分にならなかった。
昨夜から寒気を覚えていた私は、今日の昼頃まで寝入ってしまっていた。普段通りに勉強が始められなかったことにイラついたけれど、無性に喉の渇きと身体の重さを覚えた。
水を飲むために何気なくキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けたとき――泣きたいほど嫌な気持ちになった。
ラップがされたローストチキンやポテトサラダ、グラタンにスープ。そしておまけに苺と生クリームのケーキ。クリスマス仕様の夕食の作り置きは、すべてがきっちり一人分用意されていた。家政婦さんが作ったものだ。
酷い光景だと思った。この寒々しい一人っきりの家で、ただ一人分のクリスマスディナー。想像するだけでぞっとする。世の中の賑やかしさとは縁遠い家だというのに、形ばかりを作ろうとして中身がまるでない。
家政婦さんが悪いわけじゃなかった。むしろ中学生の女の子である私を気づかってのメニューなんだろう。けれどどうしようもなく嫌だと思った。
そのすべてを置いて、私は家を出た。出ずにはいられなかった。
頼んだミルクココアが冷めていくのがわかっていて、私はそのままにしていた。
ひっきりなしにやってくる客で忙しい店内で、ただ一杯だけのドリンクを目の前にぼーっとしている私はひどく邪魔だろうなぁと思った。けれど体が動かないのだ。
暖房が利いているはずなのに寒さを感じる。目元の辺りには熱がたまって、嫌なことに目が潤んでいるのがわかる。
……風邪だと思った。まるで他人事のように。
帰らなければいけない。迷惑になるから。帰りたくなくともそうしなければ。
ぐるぐると同じことが頭を駆け回る。
おまけに気持ち悪くなってきた。
「君、大丈夫か?」
ああ、店長が側に寄ってきたみたいだ。
ぼんやり見上げたその顔は不安そうにしかめられていて、周囲の客から隠すように私に向かって体を寄せてくる。まるで雛鳥を守る親鳥のようだ、なんて少しおかしくなった。そんな場違いな気分になる時点で、そうとう脳みそがやられている。
「具合が悪いんじゃないか? 帰った方が――いや、迎えを呼んだ方がいい。連絡取れるご家族はいるか?」
焦ったような声だ。傍目から見てもわかるほど酷い顔色なのだろうか。迷惑をかけることを申し訳なく思いながらも、質問には首を振るしかなかった。母さんからは数日前、携帯電話にメールが送られてきた。内容は「来年までニューヨーク」とたった一言。いまは国内にすらいないのだ。
「大丈夫です……自分で帰ります」
かすれたような情けない声が出たことに、自分でも顔をしかめた。
鞄を手に取って立ち上がった体が、まるで油の足りていない機械人形みたいにぎこちない動きを取る。足がきちんと地面についている気がしない。
客でいっぱいの店内の喧騒が、ぐわぁんと反響して幾重にも増して迫ってくるように、突然の耳鳴りと眩暈に襲われた。
――あ、傾ぐ……。
ぶれた体の軸を整えるすべも持たず、私は壁か床に打ち付けられることを覚悟した。
けれど、ぽすっと固くて暖かいものにたいした衝撃もなく受け止められる。
「タイゴさん、この子もらって行きますね」
頭上で発せられた、その低くも高くもない絶妙な響きの声には聞き覚えがあった。たった一度の出会いだったのに、あのとき感じたショックとともに骨の髄にまで染みついている。
二度目の今日は、もはや恐怖を感じなかった。そんな余裕はどこにもない。
緩慢に見上げた先にいたのは、この間のやけに綺麗な顔の男だった。立ち上がって抱きとめられている体勢のいま、小柄な私はすっぽりと腕の中に納まってしまっている。力の入らない両腕を突っ張ってみたけれど、動物を宥めるように肩をぽんぽんと優しく叩かれた。
「大丈夫だよ」
何がだ? もう勘弁してほしい。体力が著しく低下している自覚があるのだし、この間みたいに逃げることもかなわない。
「え、ちょっとシュウくん――」
「まずいかな。でも君、家に誰かいるの? いないでしょ」
私に尋ねているようでぜんぜんそうじゃない。この人の頭の中ではすべてがもう決まっているみたいだ。私の肩を抱くようにして、するすると店内の人込みを抜けて行く。慌てたように店長がついて来て、小声でこの男を止めようとしていた。
「何する気だ……!」
「然るべき措置」
けろりと答えたそのままにレジに千円札を置いて、男は私を外へと促す。足を突っ張ってみているんだけれど、それとはわからないように引きずられている私。まったくかなわない。
「あ、俺バイクなんだ。ここに置いて行くから、次来るときまで預かっといてくれます?」
「そんなことより、その子をどうする気だっての!」
ついに木枯らし吹く外に引きずり出され、私はあまりの寒さにぶるりと震えた。ついでに店から出てきた店長が、一目も憚らずに思わず大声を出している。私だって元気なら大暴れするし、叫んでいると思う。
一人だけ飄々としている男は自分が羽織っていたコートを脱いで、それで私の体を覆った。律儀にすべてのボタンを嵌めて、マフラーを顔の半分が隠れるまで巻かれる。
何をするつもりか不明の男に不安を感じている店長は、私の右腕を掴んでそのまま連れて行かないようにした。痛い。でも変人から守られる最後の生命線だ。
そのあからさまな警戒に溜息をついて、男は私に目を落とした。
霞みつつある視界の中で、自分の行動に何の疑問も持っていない真っ直ぐな瞳が見つめてくる。
「携帯電話を出してくれる?」
嫌だーと思ったけれど、男の人は勝手に鞄の中に手を突っ込んでそれを引っ張り出した。もはやいろいろと犯罪だ。でもまだ序の口な気がするからなお怖い。
「君の身内の人の番号ってどれ」
電話帳機能を開いてそんなことを言う。怖い怖い。どうすればいいの。
混乱に湧く私の頭は、正常な判断をもはや下さなかった。重たい指先を上げて、方向キーで母さんの名前を探し出す。
「これ?」
了解と小さくつぶやいて、男は私の携帯電話を弄りだした。数十秒後に今度は店長から振動音が聞こえ出す。
「うぉっ」
びくっと体を揺らした店長が携帯電話を腰ポケットから出すのを確認した男は、大通りに向かって片手を上げた。ちょうど通りがかった空車のタクシーを捕まえる。
「いま俺の住所とこの子の身内の連絡先を送ったので。夕飯時に消化に良いモノ届けてくれますか? あと俺が妙なことしたと思ったら、この子の身内に連絡取れば良いんです。ついでに警察に通報するとかね」
「は? え、何言ってんだ?」
「じゃ、バイクよろしく」
呆然とした隙をついて、男は私の右腕を店長から外した。生命線が遠ざかる。そのままの勢いで、タクシーの開いたドアから私をふんわりと押し込んだ。
ああ、嘘でしょ。これは俗にいう拉致だ。でも足が踏ん張れない。自分でもどうかと思うほど、私の体はあっさりとタクシーに乗り込んでしまった。
「わっ、馬鹿やろ……!」
男が乗り込んでドアを閉めたことで、店長の叫びは途中で遮断された。ぐらつく頭を巡らせてみると、駆け寄ろうとする店長の必死な姿が見える。
「出してください」
無情にも男は爽やかに運転手さんにそう言って、店長が窓を叩こうとした手はすんでのところで届かなかった。
私は具合のせいかこの状況のせいかわからないけれど、震えが止まらなかった。男の意図は謎なまま、タクシーは走り出してしまう。
「取って食べたりしないから平気だよ」
まるで安心できない人間の慰めの言葉なんて、何の役にも立たない。でも最悪なことに、私を助けてくれる存在はどこにもいないのだ。
願うことは、この男が私の想像よりは軽い犯罪で済ませてくれることだった。贅沢は言わない。五体満足で解放されるところまで漕ぎ着けたい。
怪しいことこの上なく、おまけにいまでは犯罪者予備軍(限りなく片足が浸かっている状態)の男の隣だというのに、私は包まれたコートのぬくもりに誘われるようにして、眠りの世界に落ちてしまった。
果たして、無事に目覚めることができるんだろうかと思いながら――。