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その日私はいつものように、学校へは行かず公立図書館で半日を過ごした後にカフェに入っていた。
学校への欠席理由は常に「風邪です」だ。あっさりとそんな風に電話をかける私に、担任はもう何も言わない。
店内は閑古鳥が鳴くというわけではないが、騒がしいほどでもない。人の注意があまり向かない適度な客数だと思う。初めは何気なく選んだ場所だったけれど、いまでは一番勉強がはかどる。
けれどいま現在、疲労が濃いことを自覚していた。毎日五時間は寝ているのに、最近は常に鈍痛が頭の中を充満していて、勉強中もすーっと抜けていくように意識を飛ばしているときがある。
――こんなんじゃいけないのに。
受験日まではあと一ヶ月もない。大学受験に命を懸ける勢いの人間は山ほどいるだろうけれど、私の場合は今回が人生の岐路だ。焦るなという方が無理。
最後に受けた模試の結果は、悪くはなかったけどとてもじゃないけれど満足はいかなかった。私の場合、合格が目標なんじゃない。上位三十番以内でなければ意味がないんだから。
母さんは私が反抗の言葉を口にして以来、どんな反応も寄越さない。たまに顔を合わせることはあっても、会話はなかった。それはいままで通りだから構わなかったけれど、もしこの計画に失敗したときのことを考えると気分が落ち込んだ。
どんな辛辣な言葉を吐かれるか。何よりその先に自由があるのか。
ふと窓の外を見るとすっかり日が落ちている。腕時計は二十時を指していた。店内の客層も、年齢が少し上がったようだ。私がいることに違和感があるが、店内の奥まった場所にいるのでそうそう目が届くこともない。
あと二、三時間はここを離れられない。目線を落として数字の羅列に集中しようとした。
――追加注文したカフェラテが、数学参考書の手前に置かれた。
私は思わず眉をひそめる。普通、広げてあるものの邪魔になるところに置くか? 店長やいつもの店員さんじゃないな。新人のバイトだろうか。
疲れが凶暴な気持ちにさせるのか、私は剣呑な雰囲気を隠しもせずに運んできた人間を見上げた。睨んだ、の方が正しい。
けれど、目標を見失ってしまう。というか、何だこの人、という感じだった。
やけに綺麗な顔立ちの男だった。二十歳そこそこくらいに見える。無地の黒いタートルネックのニットに、細身のパンツ。右腕にはマフラーとコートがかかっていて、その手にはカフェで使われているトレー。そこにはカップとデザートプレートが乗っている。
少々クセの強い艶やかな黒髪の下、美麗な顔がかすかな微笑みを形作った。
左手がトレーに伸びて、そこに乗っていたデザートプレートを私の前に――今度は数学の勉強用に作ったノートの上に置かれそうになって、慌てて私はノートとペン類を持ち上げた。
ほとんど音を立てずにそれをしてのけた男は、私の向かい側の椅子を引いて腰かけると、自分の前に残りのカップを置き、ゆっくりと背もたれにマフラーとコートをかけた。
……しばし呆然。
「え……」
何が起こっているのかわからない。店内を見渡すと、こちらを観察しているようだった店長と目が合う。状況説明を求める私の心を察しているだろうに、ふと目をそらされた。店員でもない人間が注文を運んでくるのはいいのか。というか、この人は誰なんだろうか。
向かい側に座る男を再び見やると、その薄い唇が動く。
「食べなよ」
デザートプレートを指差された。目線を落とすと、手作りプリンと小さな一口大のケーキが三種類盛り合わせてある。
「な、なんで」
そうとしか言えない。初対面の男がなぜ?
「糖分でも摂った方がいい。酷い顔だ。可愛くない」
「はい……?」
見知らぬ人に心配されているということよりも、最後の一言の方が気になる。
「可愛くない」
言い直さなくたっていい!と思った。変な人だ。すごく変な人だ。それ以上に怖い人だ。
何でもないことのように相席したその人は、自分のカップに口を付ける。状況についていけていないこちらのことなど、ぜんぜん気にしてくれない。
「あの……何なんですか」
数学のノートで身を守るように構えている私に、その人がくすっと笑う声が聞こえる。何が面白いんだ。私は何も面白くない。
「甘いものは好きじゃない? それとも食欲がないのかな」
「そういうことじゃ……」
「じゃあ食べなよ」
意思の疎通が出来ない宇宙人を前に、私は逃走準備を始めた。
やばいやばいやばい。
重たい体を動かして、ノートと教科書を乱暴に鞄に詰める。シャープペンシルやらマーカーペンなんか全部入れたかどうかも怪しい。上着を手に取ってレジに走った。
幸いにも立ち上がってまで追ってくる様子はないけれど、目線はそこから外せない。興味深げにこちらを見つめているその姿に、かつてないほどの恐怖を抱いた。バイトの店員の慣れない手つきがもどかしい。おつりなんていらないと言ってしまえたらよかったのに、律儀に受け取ってから小走りに店から出た。
上着を羽織りつつ早くその場所を離れることだけを考える。
そのとき、誰かが後ろから走ってくるのを感じた。びくりと体が震えて、かつてないほどの勢いで振り返る。
すると、駆けてくるのはカフェの店長だった。髭をおしゃれに整えた、ひょろりと背の高い三十歳半ばくらいの男性。注文を尋ねられるときと、サービスだとかいう軽食を置いていくときくらしか話したことはない。その人が真っ直ぐこちらに向かってくる。
「ごめんね……」
はぁ、と小さく息をついて店長は私の前にやってきた。自分の店を横目で振り返るようにする所作に、私もそちらを見てしまう。あの怪しい男は出てこない。でもまだ安心はできなかった。心臓はうるさいくらいに自己主張したままだ。
「うちの店の常連さんなんだ。俺がバイトだった頃からのね。もうかれこれ十年くらいかな」
「それがなんで……」
言葉が続かなかった。声が震えてしまう。
「悪い人じゃないよ。それは保障する」
保障されたところで何だと言うんだろうか。知らない人だというのは変わらない。
これまで余計なことを何一つ言わずに好きにさせてくれていた人だけに、この店長があの男を庇う姿がなぜか堪えた。初対面のあの男よりはずっと店長の方が信用できるとは思うけど、たいして知らない人間であるという点では変わらないのに、いつの間にかずいぶんとあのカフェを気に入っていたみたいだ。
まともに交わした初めての会話がこんな風になるなんて思ってもみなかった。
店長はどこか苦しげに私を見つめると、声を低めて続けた。
「君のところにときどき持って行っていたサービスだけど、あれはあの人から頼まれたんだよ」
サンドウィッチや五穀米のリゾット、パンケーキなどのサービスをたしかに出されたことがある。それはもはや常連になったカフェの店長から振る舞われるものだから、控え目にお礼を言って食べていたものだ。でもそれが、あの男の頼み……? 私が気付かなかっただけで、ずっと向こうは私を見ていたと言うことなのか。
何だろう。どんな気持ちになるのが正しいのかわからない。やっぱり怖い。だって真意がわからない。なんだって私みたいなやつに目を留めたというのか。そしていままで黙って見ていたのなら、なぜ今日は声をかけてきたりしたのだろう。
私の態度が軟化しないのを見て取ってか、店長はそれ以上あの男について何かを説明するのは諦めたようだった。出来るだけ脅かさないように声を和らげているのがわかる。
「今日のことは俺からも言っておくよ。だからまた明日もおいで」
かすかに頷くだけに留めた。とてもじゃないけれど元気に返事なんてできない。
学校に行かなくなってからはまともに他人と会話すらしていなかった。そんな中でさっきの出来事は強烈すぎる。
カランと音が鳴って、カフェの扉からあの男が滑り出てきたのを目にしたとき、私はついに駆け出した。
後ろで店長が「シュウくん」と男を呼ぶ声が聞こえた。
私はもうカフェが見えなくなっても、息が切れても、躓きそうになっても、とにかく走り続けたのだった。
ファースト・コンタクトで「可愛くない」だの「宇宙人」だの、お互いかなり酷いですね(笑)