プロローグ「父と娘の旅行準備」
「お父さん、準備できた?」
「ああ、お待たせ」
タオルで汗を拭いながら、娘のいるリビングに入る。余りに蒸すので、今夏は朝にシャワーを浴びるのが日課になっていた。
「えへへ……」
娘は余程楽しみなのだろう、私は発売前からスペックに詳しくなるほど、このゲーム機のことを彼女から聞かされていた。
その新品が二台、我が家のリビングには置かれていた。昨日届いた物だ。
娘にせがまれ、ゲーム機二台にメーカー推奨品の冷凍睡眠ソファ二脚で今夏のボーナスは丸々吹き飛んだが、彼女の笑顔に日々の疲れも一緒に吹き飛んだので良しとしている。
「じゃあ、準備するか」
「うん!」
現在では改正VR機器法───正式には第三種超高度精密情報処理機器使用者の保護に関する法律という長い名前である───の施行により、12歳以上15歳未満は保護者または資格を持つ監督者の同伴が必要と法律で定められている。以前はVR機器に関連する法律もここまで厳しくはなく、私も中高生の頃に親の同意を得た覚えはなかった。
過去には俗にデスゲーム事件などと呼ばれた、とある人災でゲームプレイヤーたちが現実に戻れず意識不明者が大量に発生した事件や、とある中学校でのVR学習中に学校のサーバーが地震によって物理的に破壊され、教師を含む二十数名がやはり現実に戻れなかった漂流教室事件などもあった。極めて初期には医療事故なども多発していたように思う。
小さな事象では肩こりが酷くなった、ゲームにのめり込んで仕事に遅れる人々が多発したなど、VR機器には数々の問題がつきまとっている。
それら問題を少しでも低減する為に、VR機器法は制定されていた。
未成年者には保護者や監督者がつくし、強制的な仮想世界との切断ショックを低減するため、ソフト、ハードともに二重三重の保護機構を備えることが義務づけられている。
「初期設定って時間掛かるのかな?」
「さあ……最近のゲーム機だから、学校のよりは早いんじゃないか?
父さんもVR機器は仕事で毎日使うけど、ゲーム機までは詳しくないからなあ」
「ふーん」
ゲームをするために親の同伴が必要、というのは思春期世代の若者には苦痛かも知れないが、親子のコミュニケーションという意味で少し評価を改めたいと、親の側である私は思う。娘にせがまれたこともあって同じゲームで同じ時間を過ごそうと決めたのには、多少の負い目もあった。
娘の千晶はまだ14歳で、我が家は去年から父子家庭だ。
……離婚の経緯については私にも色々と思うところはあるが、娘には申し訳ないと思う部分が大きい。大人の都合で娘を振り回したことだけは、元妻ともども反省している。
「……ね、間に合うかな?」
「今日の分のサービス開始は夕方の四時だから、まだまだ余裕があるはずだよ。
まあ、先に接続しても、始まるまでは時間圧縮がされるだろうし……」
「学校のVR授業だとね、待ち時間長いんだよ?」
「ゲーム機だからなあ。
父さんも会議で待たされることは……多いかな」
娘の選んだゲームは、現実世界の『三日間』を消費して体感時間で『数年間』という長期間、VR技術で形作られた仮想世界へと私たちを旅立たせてくれる。夏季休暇の半分はこれで潰れてしまうが、娘とちょっとだけ豪華な旅行に行ったと思えば大したことではない。
<サイテック・カンパニー・ジャパンの誇る第三世代型VRゲーム機、『VOX』の世界へようこそ。
本製品VOX VG-200TypeJは太陽系連合日本自治州内向け製品であり、許可を受けない他州や第三国への販売、持ち出し等には……>
私はお決まりのガイダンスを聞き流しながら、懐かしい思い出に耽っていた。
初めてVRゲーム機───いや、VR機器に触れたのは高校一年生の頃だから、かれこれ三十年近く前になる。
今時のゲームやVRオフィスに比べれば子供だましとでも言えるちゃちな代物だったが、時には特殊部隊の兵士に、時には宇宙艦隊の司令官に、またある時はファンタジーな世界で英雄王になりきって、縦横無尽に遊び倒したものだ。
それが今や……中学生の娘が登校時に使う手提げ鞄にも入る重さと大きさで、処理能力は数百倍に達しようというのだから恐れ入る。
<以上の情報でお間違いないでしょうか?>
「問題ない」
<では『VOX』への登録を完了いたします。
このまま続けてソフトウェアの選択に入られますか?>
「いや、一度現実に戻るよ」
<畏まりました>
ガイダンスに従って個人情報を開示して『VOX』の登録を済ませ、私は一度現実へと戻った。
基礎的な身体データはゲーム会社とは別の会社が管理するパーソナル・データが使われるので、既に成長期など四半世紀も昔に終わった私はそちらを定期的に更新しておけば大抵問題ない。
うちの娘などは中学生という月に数ミリも身長が伸びる成長期のまっただ中、私の頃とは違って学校では毎月測定がなされているそうだ。
「終わった、お父さん?」
「うん、終わった」
「じゃあ、次はゲームの方だよ。
『新・剣と魔法のサーガ《戦乱の向こうに》』だからね、チップは二枚あったけど間違えないでね、『新』のついた方だからね!」
「ちゃんと確かめたから大丈夫だよ。もう一つはオフラインゲームのデータだろう?
それに昔の『剣と魔法のサーガ』のことなら……」
「もう、お父さん昨日からそればっかり!」
『VOX』と共に届いたゲームソフトのパッケージから取り出したチップを挿入して待つこと数秒、インストールは二台とも極簡単に済んだ。先に保護者としての手続きを行い、同伴者登録をする。
ソフトウェア商品の販売がダウンロードと電子決裁が主流となった現在でも、いわゆるプレミアムパッケージ───例えばフィギュアや小物、天然素材の紙で出来たカラフルな取扱説明書などが同梱されている───は人気が高い。ソフト単体よりは余程高価だが、それら『おまけ』を片手にリビングで娘と楽しく過ごす時間を与えてくれたのだから、私にとっても確かにプレミアムだった。
娘と選んだこのゲームは新作だが、作品そのものは私にも馴染みがあった。長期に渡って作られ続けているシリーズ物で、世界観を共有した多くの作品が生み出されている。その名の通り剣と魔法を駆使した冒険を主体としたファンタジー作品で、主人公が英雄として悪い魔物を倒すという王道のストーリーを主軸とするが、最近では派生作品の方が有名だろうか。
十数年から二十数年も前になる若かりし頃、私は旧世代機で行われていたMMORPG版の『剣と魔法のサーガ』に大きくのめり込んでいた。もちろん、今接続している『VOX』のように仮想世界の時間を大きく引き延ばすような機能などなかったが、学生時代からの延長で仲間も大勢居たし、結婚前で時間も金もあった。
……だが何よりも、そのゲームは楽しかったのだ。
パーティーを組んだ仲間との冒険はもちろん、ポーション買い占め騒動に《互助会》の大会議、ステルス山賊、早朝の礼拝、千本旗の恐怖、QOT事件などなど、キーワードを思い出すだけでも当時の興奮が蘇る。
<『新・剣と魔法のサーガ《戦乱の向こうに》』のお買いあげ、誠にありがとうございます。
ゲームの開始に先立ってプレイヤー情報の登録を行いますので……>
『新・剣と魔法のサーガ《戦乱の向こうに》』はサービスを開始して一週間が経過している。
この数日の内に、娘とはネットに上がっている公式情報や攻略サイトを参考に、二人でプレイスタイルに合わせたスキル選択や成長類型などを幾度も検討している。
まるで別のゲームで知り合った仲間と新しいゲームを始めるにあたって開催するオフ会のようだと、私は娘に笑顔を向けた。
娘もVRゲーム機を使わない小中学生でもプレイ可能なネットゲームについては幾らかこなしていたこともあり、私への説明や意見にも熱が入っていた。
<では只今よりキャリブレーションを行いますので、リラックスした姿勢でお待ち下さい。
なお、この作業には数分間必要です>
キャリブレーション───本来は測定機器などの誤差補正作業を意味する───は、ゲーム機に限らずVR機器への接続には最低限必要な作業だった。
肉体と精神を仮想現実に移行するための修正値や予測値を測定し、使用者に合わせて機器を調整するのだ。
昔は仮想空間内で出来ることも少なかった代わりに、調整に必要な情報量も少なくこの様な手間もなかったが、仮想空間が本物の現実世界に近づくに連れて、この種の情報修正作業は重要な位置づけを占めるようになった。なにせ朝食べた物一つで体重が変わるし、風邪をひいているなら体温の変化もある。女性なら生理や妊娠も考慮しなくてはならない。
故にキャリブレーション作業には、健康診断も含められていた。
<キャリブレーションの第一段階が終了しました。
第二段階と平行して、プレイヤー・キャラクター・メイキングを開始します。
思考入力で必要な情報の入力と修正を行って下さい>
私は以前使っていたキャラに似せるべく、情報の入力を行った。
ベースはプレイヤー自身でも、例えば身長や体重、体型や髪色の変更、あるいは種族そのものを人間外に設定して、あるはずのないネコ耳や尻尾の追加することも出来る。
私も種族を変更し、わずかながらに色などを調整してキャラクター・メイキングを終えた。
<全ての作業が完了いたしました。以上で登録を終了いたします。
チュートリアルモードの途中解除はメニューからお選びいただけます。
それでは、『新・剣と魔法のサーガ《戦乱の向こうに》』の世界へご案内いたします>
全ての準備を済ませた私は、仮想現実の入り口へと意識を飛ばした。あちらでは、娘との新しい出会いが待っているだろう。
現実世界では三日間の短い旅行でありながら、体感時間で『数年間』に及ぶ長い長い異世界への旅は、始まったばかりだ。