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「また憂鬱な季節が来るな」

 教室の中はまだ完全には温まってはいない。小学校からの親友であるカズがうんざりした顔で「いやだいやだ」と話しているのをぼんやりと聞きながらほとんど何も入っていないかばんを机の横に乱暴にかけた。

「確かに憂鬱ではある。だが、チョコレート天国であることには違いない。」

 マフラーもコートもすっかり脱ぎ終わり教室の後ろに並べられた個人ロッカーの中に無理やり押し込めると俺は真顔でそれらしく答えた。

「バーカ、世の中にチョコがあふれてたってもらえなかったら虚しいだけじゃねーか!」

 カズは「どれだけチョコ好きだよっ」とゲラゲラ笑いながら俺の頭を軽く小突いた。

「確かに……」

 そう言いながら俺は一瞬だけ矢野さんに視線を移しすぐさま外を見た。

 世の中はこのカップルのイベントであるバレンタインを街を挙げて盛り上げようとしていた。今までクリスマス、バレンタインといったカップルイベントと呼ばれるものは興味のある振りをしつつも実際ほとんど興味がなかった。クリスマスやバレンタインに一人で過ごすという恒例の自虐ネタも話のネタの一つとして楽しんでいたが、心底一人がいやだったわけではない。

 だが、今年のバレンタインは少し違った。


 矢野さんは特別美人というわけではなかったが、いつ見ても楽しそうで、細めた目元にしわを寄せ、八重歯をキラリとのぞかせるその笑顔がかわいらしかった。

 以前俺が体育ではしゃぎ過ぎて転んだ時、肘から血が出ているのに気づいた矢野さんがバンドエイドを貼ってくれた。「ちょっと動かないで」と言われじっとしつつ彼女を盗み見るといつも見せる笑顔とはまるで違う真剣な表情がそこにあり、胸が高鳴った。

 肘に貼られたバンドエイドは何かのキャラクターの絵が描かれたカラフルなもので、それを付けているのは気恥ずかしかったが、それは男に不釣合いな可愛いものだからという単純な理由だけではなかった。

 その時からなんとなく気になる存在ではあったが、最近特に気になる理由があった。ここのところよく目が合うからだ。最初は気のせいだと思った。俺が無意識に目で追っているから目の合う率が高いだけかもしれない。だが、やはり気になる。

 いつしか俺は、矢野さんからチョコがもらえたらいいな、という淡い期待を抱き始めていた。


 バレンタイン当日、矢野さんに呼び止められ"キター!!"と心の中で叫んだ。俺の心は舞い上がり心臓が早鐘を打った。期待通り、ある意味予想通りで頭の中では盛大なファンファーレが鳴り響いていた。

 そんな脳内のはしゃぎ様を気づかれないよう平静を装い、素知らぬ風の俺は彼女の発した一言に耳を疑った。

「今日、お兄さんは何時ごろ帰るかな……」

 兄ちゃん狙いだった。

 高いところからヒューと落ちていくように血の気が引くのがわかり、天と地がひっくり返るかと思った。少なくとも、世界が揺れた。

 矢野さんは以前から兄ちゃんを知っていて憧れていたのだという。俺とよく目が合ったのは俺を気にしてではなく、俺の後ろの兄ちゃんを見ていただけだった。

 小学生の頃、バレンタイン近くになると兄ちゃんのことを聞きに来るあの女子たちの中に彼女もいたのかもしれない。まるで気づかなかった。

 恥ずかしかった。勘違いして舞い上がり、期待に胸を躍らせた自分が惨めで哀れで消えてしまいたかった。そして兄ちゃんが妬ましかった。


「バレンタインにチョコレートをもらうなんて都市伝説」

 無邪気に恒例のバレンタイン自虐ネタを披露し続けるカズの存在に救われる思いだ。何も知らないかわいいやつめ、心底いいやつだ。

 俺はいつも以上にそれに乗り、カズと二人笑いながら帰った。心の奥に吹く冷たく乾いた風をどこかへ追い払おうと必死だったが、そんな自分がどこか空回りしているようで滑稽に思え、虚しさが増した。


「じゃあ、また明日な」

「おう」

 カズと別れ、俺は一人家に向かった。

 空のグレーがかった水色はまるで水彩画のようで、早くも傾きかけた陽が地平線近くに薄いオレンジをにじませ、淡いグラデーションを描いていた。空を渡る電線や葉のない骨組みだけの細い木々のシルエットが空のキャンバスに浮かぶ切り絵のようだった。


 そんな景色を背景に今、最も会いたくない2人の姿が目に飛び込んできた。


 人気のない寂れた公園に2人の影。兄ちゃんと矢野さんだ。

 気づいたことを後悔した。見たくないものを見た瞬間の、けれど目が追ってしまう自然な動作にうんざりした。

 話は終わっていたらしく、矢野さんが小さくお辞儀をし、こちらに向かって歩き出した。すぐにこちらに気がつき、一瞬目を合わせた後、軽く会釈をして気まずく顔を隠すように走り去った。

 その場に残された兄ちゃんもすぐに俺に気づき近寄ってきた。

 俺はこんな場面見たくなかったが、兄ちゃんにとってもそれは同じだったらしく、見られていたことに気恥ずかしさを感じたのか妙によそよそしく話しかけてきた。

「今の子、知り合い?」

「……クラスの女子」

 思わず顔を背けた。なんとなく顔を見れなかった。見たくなかった。

「なんか、ずいぶん前に雨の日に傘を借りたお礼だって。俺、全然覚えてねぇけど」

「へぇ……」

 何だそれ、かっこよすぎじゃねぇか。

 顔は割と整っていて、いい方だし、頭もいいし、おまけに女子にそんな優しくできて、できすぎじゃね?

 兄ちゃんに対する憎悪がどんどん膨らんでいくのがわかった。兄ちゃんは悪くないし、ただの八つ当たりだとしても、止まらない。兄ちゃんが許せなかった。しかし、もっと許せなかったのは……

「これ、やるよ」

 鞄の中からピンクの包みを取り出し、こちらに差し出した。

「お前チョコレート好きだろ?」

 まさか自分の兄がこれほどまでバカだとは思わなかった。今までバレンタインのチョコは俺がもらってきたし、俺はそれを食った。俺はチョコレートが好きだ。だが、たった今ここでもらったばかりのチョコレートを弟にやるか?――仮にこれが本当にただのお礼の品であったとしても、矢野さんに失礼だ。

「このチョコレートは……」

 もうこれ以上こんなやつの話は聞いていたくなどなかった俺は話の途中で差し出された、矢野さんのチョコレートを兄の手から奪い取るとその場を走り去った。


 夢中で走った。矢野さんに追いつくだろうか。彼女はどんな想いでこのチョコを手渡したのだろうか。兄ちゃんに憧れていると言っていた彼女は頬を染め、とても照れながらも目をキラキラさせて嬉しそうだった。そんな気持ちを踏みにじるなど、許せない。



 俺が事故にあったのはそのすぐ後だったように思う。

 血まみれに倒れる俺の周りにチョコレートが転がっていた。大好きだったチョコレートに囲まれてあの世にいけるなんて幸せじゃないか。だが何故か涙は止まらなかった。こんなつまらない死に方をするなんて……

 なんだかとても惨めだった。


 悲しみの中で俺は生涯の幕を下ろした――


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