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「智、……智也!」

 名前を呼ばれはっとする。振り返ると12歳に成長した兄ちゃんが俺を見ていた。

 空はいつの間にか東から夜が迫ってきていて、圧倒的に夜に支配されつつある空の西の片隅に、かろうじてオレンジに染まる空が残るだけとなっていた。月は夜の暗闇の中で光を取り戻したように輝きだし、細長い弧を描いている。

 電燈の明かりがスポットライトのように兄ちゃんを照らし出し、俺からは兄の姿がよく見えた。顔つきが大分男の子らしくなった兄ちゃんの母さんゆずりの大きな瞳はキリッと鋭い光を放ち、口元はぎゅっとへの字に結ばれていた。

「こんな時間まで何やってんだよ。帰らないと母さんに怒られるぞ。」

 ぶっきらぼうに放たれた言葉から兄の苛立ちを感じた。

「今から帰ろうと思ってたのに。言われなくても、わかってる。」

 日が暮れていることに気づかず時間を忘れ遊んでいた楽しい気持ちに水を刺されたような気がして苛立ちを覚え、つい反発の言葉を返す。

「なんもわかってねぇーだろ。さっさと帰るぞ!あー、もうめんどうくせぇな」

 母さんに言われてしぶしぶ迎えに来たのだろう。兄の苛立ちと俺の苛立ちとがぶつかり合って場の雰囲気は最悪だった。兄ちゃんは始終「見たかったアニメが」とか「めんどくせー」とぶつぶつと嫌味な小言を言いその度に自分の肩身がどんどん狭くなるのを感じながら帰路に着いた。


 兄弟は一緒の部屋に押し込められていた。狭い部屋に兄ちゃんと俺の勉強机が仲良く並べられ、2段ベッドの上が兄、下が弟という風に使っていた。

 俺のものと兄ちゃんのものはひと目でどちらのものかわかるようになっていた。兄ちゃんのものは何もかもが整頓されていたからだ。俺の机の上といえば、乱雑に積み重ねられた漫画雑誌、ゲームソフト、アニメのイラスト入りの複数のカードやベーゴマを進化させた最新おもちゃなどがごろごろ転がっていた。

 夕飯を済ませ部屋で携帯型のゲームをしている俺に不意に兄ちゃんが声をかけた。

「今日はお前にチョコやんねー。さっき迎えに行ったので帳消し。残念だったなー!」

 意地の悪い声でケラケラと笑った。

「くれないならわざわざ言うことないだろ!チョコなんていらねーよ!」

 売り言葉に買い言葉、いやよいやよも好きのうち。いわゆるツンデレか、俺は。

 ぷっくりとほっぺたを膨らませ、ふてくされた俺の姿を見て満足したのか、一瞬またあの大きな瞳が鋭い光を放ちニヤリと笑った。兄ちゃんのこのいたずらっぽい表情が好きだ。

「智、ほら」

 そう言ってグーに閉じられたこぶしを俺の前まで伸ばしニヤリ笑顔でこちらを見た。差し出されたこぶしの下に両手でお碗をつくると兄ちゃんのこぶしの中から色とりどりの粒状のチョコレートが三つ、手のひらに転がった。

「母さんに内緒だからな。」

 そういってくるりと向き直りきちんと整頓された机に向かった。机の上には、丁寧に作られたロボットや、飛行機のプラモデルがアニメのワンシーンを思わせるような、かっこいいポーズをとった状態でディスプレイされていた。

 兄の作る小さい箱庭の世界を眺めながら、もらったチョコレートをひとつ口に放り込みポリポリと音をさせながら食べた。甘さが口の中いっぱいに広がってきた。さっきの気まずい雰囲気はこれで帳消しとなった。

 こんな風に兄ちゃんは毎日ではないが事あるごとに俺の大好物のチョコレートを少し分けてくれた。それがなんとなく当たり前になっていた。


 こんな何でもない日常が続いた。毎日毎日、笑ったり怒ったり時には悲しかったり。春が来て夏が来て秋が来て冬が来る。

 そんな当たり前のように続く日常が実は当たり前ではなかったことが今の俺にはわかる。この日々はいつか終わりが来る。そして俺はこの日常を終わらせるための旅をしているのだ。

 兄ちゃんは相変わらず時々意地悪をしながらも俺に大好物のチョコレートをくれた。そして俺がチョコレートをおいしそうに食べる姿を満足そうに微笑みながら見守る。その当時はあまりにも当たり前すぎて何も感じなかったが、この日々が永遠に続くわけではないことを知った今、どれだけ尊く幸せな日々だったかを実感した。

 この日々を終わらせなければいけないことがつらかった。


 砂時計の動きが緩やかなのをいいことに俺はすっかりこの世の俺の人生に入り浸るようになっていた。終わらせなければいけないと思えば思うほど、自分の人生に執着心が芽生えた。この日々を手放したくない。

 だが自分に残された時間が残りわずかであることも事実だった。後どれだけの時間が残されているのか確かめるためにも一度あちらに戻ることにした。

 「戻る」と決めた瞬間いつでも"ここ"へはくることができた。相変わらず闇と静寂があるだけだ。目の前には大きな砂時計が音もなく鎮座している。

 あれだけゆっくりと動いていた砂時計の、下側にたまる砂はいつの間にか部屋の半分以上が埋まっていた。

 いつの間に、これほどの砂が落ちたのだろう。それほど向こうにいる時間が長かったのだろうか。もう時間がない。

 だが、俺はカカオの木になることを約束された身だ。あれだけ大好きだったチョコレートとして生きるのだ。ためらうことなどない、そう言い聞かせ旅を続けた。




 あの日も俺は何気なく兄ちゃんの机の上にあったチョコレートをつまみ食いしていた。

 兄ちゃんはこの頃中学生になり背が伸びたこともあって、生意気にも女子にモテ始めていた。バレンタインの今日など色とりどりたくさんのチョコをもらって帰ってくるというイケメンっぷりにわが兄ながら少し誇らしくはなったが、面白くはない。

 俺のクラスの女子までが兄ちゃんのことを聞きだそうと俺のところに来るくらいだ。小学生のくせにませたアホ女子どもめ。腹立たしいことこの上ない。

 兄ちゃんのところに持ってこられたチョコレートなどこの俺様がすべて喰らってやるわ!と俺が意気込む前から兄ちゃんは俺に要らないチョコは全部くれた。なんという屈辱。だが頂けるものは頂いておく主義だ。このチョコレートたちに罪はない。罪なのは兄の態度だ。まったくもってけしからん。

 御託を並べ立てながらもしゃもしゃとチョコを平らげた。美味であった。


 ふと兄ちゃんの机の上に、まだチョコレートの箱が残されていたことに気づいたのが、この日の悲劇の始まりだ。


 封は開いていた。ピンクを基調とした箱の周りには白、ピンク、赤のリボンでこてこてにラッピングされていた後が見え、その姿は買ったものに比べるとボテッとしてどこか垢抜けない。中を開けるといかにも手作りといった風のゴロゴロとした不ぞろいのチョコレートが並んでいた。

「ほぅ、手作りのチョコレートとはまた渋い」

 不恰好な見た目の割りに美味しかった。ひとつつまみ食いするつもりがひとつ、またひとつとついつい手が止まらなくなっていた。

 さすがに兄から直接もらったものではなかったので勝手に食べたことに気が引けたが食べてしまったものは仕方がない。美味しくいただいたことに感謝をし、そのまま何事もなかったかのように元に戻しゲームの世界へ戻っていった。


 いつの間にか兄ちゃんは部屋に戻ってきていた。薄暗くなった部屋の中で自分の机の前に立ちすくんだまま動かなくなっていた。

「兄ちゃん、どうかした?」

「智、お前。これ食った……?」

 兄ちゃんは顔も視線も向けず立ちすくんだまま、いつもよりずっと低く重苦しい声で搾り出すように語りかけてきていたのだが、兄のいつもと違う雰囲気などまるで気に留めることなく、ゲームに夢中になりながら上の空で返事をした。

「ああ、うん。めちゃうまかった。」

 次の瞬間ものすごいスピードで何かが飛んできて額に当たり床に転がった。転がったのはチョコレートが入っていた箱だった。

「いってえな!なにすん……」

 途中まで言いかけて兄ちゃんの怒り狂った顔にはじめて気づいた。顔面蒼白、目の奥には氷点下を思わせる程冷たく青白い炎を鈍く光らせ、総毛立ち、口からは牙が生えているような恐ろしい形相だった。俺の中での通称"鬼ーちゃん"モードだ。音の響きはかわいらしいが内容はまったくかわいくない。この顔の時はヤバイというのは今までの経験上わかっていた。

 しかし、無断で食べてしまった罪悪感と自分のしたことを何とか正当化したくて言い訳をしないわけにはいかなかった。

「そこにおきっぱなしだったじゃねーか。それに全部は食ってないだろ!」

 言ってしまってからハッとした。素直に謝ったほうが良かったのではないか?次に何が飛んでくるかわからない。重量のある書籍か、はたまた心の奥の見えない傷をえぐる様な相手の弱点を的確に突いた鋭く残虐な言葉か。

 すかさず身構えたが、意外と何も起こらなかった。

 兄ちゃんはこぶしで机を思いっきり叩きドンっと大きな音をさせた後、大きなため息をひとつ吐くとそのまま部屋を出てしばらく戻らなかった。


 拍子抜けしたのと同時に兄ちゃんがあれだけ怒るなにかをしてしまった後悔と罪悪感に一瞬悩まされたが、それを消すかのように「それほど怒ることかよ」と逆切れした。そうしておく方が自責の念を抱くよりずっと楽だったからだ。


 この出来事のすぐ後、兄弟の部屋はそれぞれ個々の部屋に分けられた。

 兄ちゃんは今までも部屋を別々にして欲しいと訴えてきたが、今回のことで今まで以上に積極的に両親を説得し、とうとう父さんが折れた。兄ちゃんももう中学生だし一人の部屋を持ってもいい頃だという結論に達したらしい。奇しくも俺は小学生の身で一人部屋を得た。

 兄ちゃんの部屋は父さんの書斎という名の趣味の部屋を空けて使うことになった。


 兄ちゃんの荷物が丸ごと移動されたこの部屋は今までと同じ部屋とは思えない広さだった。

 自分だけの「一人部屋」は嬉しかったがその反面、広くなったその分すっかりぽっかり穴が開いてしまったかのように寒気がした。西日がだだっ広くなった部屋をすっかりオレンジ色に染め、ところどころに深い闇を落とし、それはそっくりそのまま俺の心の中を描いているようだった。


 思えばこの頃から俺と兄ちゃんの間には溝ができてしまったように思う。

 兄ちゃんには彼女ができたらしく、外出することが多くなった。家にいたらいたで、はじめたばかりのエレキギターに夢中で、部屋にこもることが多くなり、俺の相手をすることはほとんどなくなった。そのことを多少寂しく感じはしたが、俺には俺なりの居場所があったからそんな関係には次第に慣れていった。

 中学に入り、気の合う友達もたくさんできたし、密かに好きな子もいた。勉強は少し難しくなり苦戦したが、それでもそれなりに楽しい日々を過ごした。

 時には途方もなく繰り返される同じような日々に退屈したが、この時はまさか自分がこの後、こんなに早く人生の終焉を迎えることになるなんて、思ってもみなかった。

 この何でもない、つまらない日常の輝きを死を持って知ることになるとは、皮肉なものだ。



 意図せず再び闇の中にいた。

 目の前には砂時計が現れ、"ここ"に戻ってきていた。意図せず"ここ"へ戻ったのははじめてだったが、砂時計を見て、呼び戻された理由に合点がいった。

 すでに砂時計は時間終了を知らせるがごとくほとんどの砂が下に落ちていて、残りわずかの砂がまるであり地獄を思わせるように中心に向かって渦を巻き少しずつ下へ落ちようとしていた。

――もうタイムリミットか。

「調子はどうだ。別れの儀式は進んでいるかね?」

 久しぶりにこの声を聞いた気がした。いや、あれはついさっきのことだったか。"ここ"に来ると時間の感覚がよくわからなくなる。

――よくわかりません。

 正直に答えた。まだ誰とも何とも別れなどしていない。むしろ自分の人生への愛着が増すばかりだ。

「別れの儀式を終了せんと次の命を歩むことはできんぞ?」

 正直、カカオの木になることなど、もはやどうでもよくなっていた。相変わらずチョコレートは好きだがチョコがきっかけで兄と気まずくなったことを思うと憂鬱になった。

「残された時間はわずかだ。残りの時間を有意義に使うがいい」

 声の主の最後の言葉が闇の中に溶けるように消え、それきり何も語らなくなった。

 残された時間は短い。限られた時間の中で一体何ができるのだろう。まだ何をすればいいのか何もわからなかった。

 このまま何もしないでいて別れの儀式を終わらせずにいたら一体 自分はどうなってしまうのだろうと思うと恐怖に駆られた。だが……やるしかない。どちらにしても、もう引き返せない。

 意を決し、俺はこの人生の最後へ向かうべく旅立った。



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