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またも闇だった。
だが先ほどの闇と違ったのは、ゴォゴォというリズミカルに響く音が聞こえてくることと、心地よい暖かさだった。この音を聞いていると安心できたし、この暖かさは極楽のものだったが、何しろ窮屈で早く出たいと思った。
ああ、そうだった。この時、新しく生まれることにどれだけ期待と希望を持っていたかを思い出した。前の人生を終えまた新しい人生を始める時の期待、そして少しの不安。先程、カカオの木としての人生に期待を寄せたのと同じだった。少なくともこの時はこの人生に期待していた。
いよいよ狭くなりあまりの窮屈さに、もうここにはいられない。ここから旅立つ時がきたと直感で悟り、狭く苦しい道を進みそして……
この世に人間として産声をあげた。
誕生という幸先のよい言葉の響きとは裏腹にひどい有様だった。死ぬかと思った。この寒さ。そして息がうまくできない。
一度にたくさんの情報が飛び込み、まぶしすぎて何がなんだかわからない。すぐさま引き返したくなった。お母さんのおなかの中へカムバック。もういい、満足した。帰る。
心地よかった母のお腹の中から外へ出され、一瞬激しい後悔に襲われたが次の瞬間、ものすごく暖かな気配を感じ、すぐさま後悔の念も吹き飛んだ。自分以上にこの世に生まれたことを喜んでくれている存在がいることを目には見えなかったが全身で感じた。まずは母さん、それから父さん、それと……兄ちゃんだった。
三人の暖かく喜びであふれた目がこちらに向けられているのを全身で受け止めた。
俺がこの河村家の次男としてこの世に生を受けた瞬間だった。
俺は智也と名づけられ、それなりに可愛がられた。
それなりにっていうのには理由があって、3歳年の離れた兄ちゃんとまだ何もできない俺の面倒を母さん一人で見るのはとても骨の折れることだったし、兄ちゃんもこの頃はまだまだ甘えたい盛りで母さんなしでは生きられなかった。母さんが俺につきっきりなことに嫉妬してわざと甘えて見せたり、俺の世話をする手を止めるように駄々をこね、母さんを困らせていた。
そのためベッドや揺り篭の中に放置されることも度々あった。ベッドの中で放置されているときは、母さんは大体家事をしているか兄ちゃんの相手をしているかだった。兄ちゃんにとって俺は"母さん争奪戦"のライバルだったが、俺にとっても兄ちゃんがライバルだった。
だが、兄ちゃんが俺を見る目はとても優しかった。母さんを独り占めできなくなった寂しさ以上に自分が兄になったという誇りが兄ちゃんの中で大きくなっていた。とても小さく弱い存在の弟を自分が守るのだという使命に燃えているようだった。
兄ちゃんは布団に寝かされた俺のそばに寄り、まだしわくちゃで真っ赤なサルのような俺の顔に恐る恐る小さな指を伸ばしそっと触れたが、その感触に驚いたのかすぐに指を離し目を丸くして母さんの顔を見た。
兄ちゃんは笑顔でいる母さんの顔に安心したのかもう一度小さな指をそっと伸ばし今度はもっとしっかりと俺の頬を撫でた。
俺はそんな兄ちゃんに精一杯の笑顔を見せると、それを見た兄ちゃんと母さんはまた顔を見合わせ、母さんに似て大きな瞳を細くしてくしゃくしゃの笑顔を見せた。母さんもそんな俺と兄ちゃんの様子をニコニコしながら見守っていた。
母さんを取られて寂しい反面、俺のことをとても可愛がってくれた兄ちゃん。
こんなに優しい目で俺のことを見ていてくれる兄ちゃんなのに、兄ちゃんのことを思い出そうとしてもいいイメージがない。むしろ、内側から沸いてくる黒い感情に不安を覚えた。
俺は兄ちゃんとこのまま兄弟仲良く、という風には過ごしてこなかったのかもしれない。
だが、今は優しくあどけない兄を見ることを純粋に楽しむことにした。この先何があるのかわからないが、今俺と兄ちゃんの間には暖かい何かつながりのようなものがあるように感じた。それは小さい兄ちゃんの兄として生きると決心したことでうまれた「兄弟」の約束だったのかもしれない。俺には兄ちゃんの考えていることはわからない。しかし少なくともこの時の俺は兄ちゃんが大好きだった。それで十分だった。
俺がチョコレートとの衝撃の出会いを果たしたのは3歳の頃だった。兄ちゃんは実においしそうに黒く平べったい板をパリパリと音を立てて食べていた。
この頃の俺には兄ちゃんのすべてが輝いて見え、兄ちゃんのすべてがうらやましかった。兄ちゃんのすることは全部真似した。チョコレートも例外ではなく、兄ちゃんが食べているなら当然俺も食べるものだと信じて疑わなかった。
「にーたん、それなーに?ともくんもほちい」
まだ上手くしゃべれない俺なりに全力でアピールした。我ながらなんとも可愛らしい俺。
兄ちゃんはすべて真似をしてくる弟の存在を少し煙たくも感じていたが、子供特有のかわいらしさにはやはり弱いようで「ちょっとだけだよ」といい黒い板の欠片を分けてくれた。
口の中に甘さが広がりそして少しずつ溶け、消えていった。すぐさまこの甘い食べ物のとりことなった。
「にーたん、もっと!もっとちょーらい!」
目を輝かせ自分の足にすがる小さい存在を、愛おしいと思ったのかもしれない。兄ちゃんは俺の前にしゃがみこみ、目線をあわせ「チョコレート。これ、チョコレートっていうんだよ」とゆっくり語った。
「おとれーと?」
上手くしゃべれない俺の言葉に思わずプッと吹き出すと
「ちがうよ、チョコレートだよ。チョコレート。もう一度言ってみて」
と、もう一度はっきりとした口調でゆっくりと言い聞かせた。
「ととれーと!」
努力は認めるが、まるでしゃべれない弟の言葉に笑い転げながらも、チョコを少しずつ割って分けてくれた。
「お兄ちゃん、ご飯前なんだからやめて!智がご飯食べなくなるから!お兄ちゃんもよ。お菓子ばっかり。」
俺と兄ちゃんが笑い転げている間を母さんの鋭い声が割り込み、チョコレートはこれでおしまいとなったが、そんな大人の都合などわからない子供な俺は目の前の美味しいチョコレートを食べたい一心で兄にすがり続けた。
「もっとちょーらい!」
悲しげな顔に見えたのだろうか、兄ちゃんは母さんに隠れてそっとチョコを小さく割り、周りに聞こえないような小さい声で
「これでおしまい、お母さんには内緒だよ」
そう言いながら小さいチョコレートの欠片を俺の口に放り込んだ。俺は兄ちゃんとの小さい約束を理解したのか「小さくうなづくと」また嬉しそうにその日最後のチョコレートを堪能した。
兄ちゃんはそんな俺の顔を満足そうに見ていた。
残された時間を気にしながら俺は時々あの場所へ戻ったが、思ったほど砂時計は進んでいなかった。
例えば過去の自分を追うことに夢中になりその場に10日間ほど長居をしてしまっても、砂時計の砂はほとんど落ちているように見えなかった。
おかげで自分の人生をゆっくり見てまわることができた。生まれてから死ぬまでの人生を振り返るというのはとても不思議だがこれが走馬灯現象というものなのかもしれない。もっとも、走馬灯はもっと瞬く間に流れるもので、こんなにゆっくりと見てまわれるものだとは思っていなかったが。
別れの儀式は俺にこの走馬灯を見せるためのものなのだろうか。この走馬灯を最後まで見終わったときこの儀式は終了となるのだろうか。この走馬灯の結末、それは「死」だった。確実に死に向かって歩いていることに不安を覚えた。