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自分にとってはじめての小説です。 稚拙な文章ですが、読んでいただければ幸いです。
――暗闇
気づいた時、自分がどこにいるのかわからなかった。
上下左右どこもかしこも暗闇で何がなんだかわからない。自分がどこに立っているのか、立っていないのかもわからない。何しろ自分が存在しているという感覚がないのだ。ただただ、この静寂に包まれた闇の中に浮かんでいるようだった。
それからどれくらいの時間が流れたのだろうか。
一瞬だったが、何千年、何万年もそこにい続けたような気がした。時間の感覚がまるでわからなかった。一瞬も永遠も同じことのように思えた。
そんな不思議な場所だったが何故だか懐かしい気持ちになった。前にも来たことがある。
そうだ、帰ってきたのだ。"ここ"へ――
「おかえり、わが子よ」
どこからともなく声が聞こえる。重低音かと思えば超音波のような高音、さまざまな音域が混ざり合ったような声だが不快ではない。厳しく力強い野太いような優しく暖かくか細いような不思議な声だった。相変わらず辺りは闇しかなく、声の主がどこにいるのかはわからなかった。
「お前は地球と呼ばれる星の人間として生きた子だったな」
自分が何者なのか、今までどこにいたのかわからなかったが、声の主の"人間"という言葉には覚えがあった。
「そしてその人間としての人生は終焉を迎え"ここ"へ戻った」
――そう、人間だった。でもそれ以外のことは覚えていない。
「無理に思い出す必要はない。自然と思い出すだろう。それより……」
声の主は一瞬間を置き、改まったように丁寧にゆっくりと語り始めた。
「お前は今、人という体から抜けて出たいわば"魂"の状態だが、魂は魂のままではいられない。新しい体に入る必要がある。つまりお前は、違う生命として生まれ変わり新たな人生を歩まねばならん」
この言葉に先程からの自分が存在している感覚のない浮遊感にやっと合点がいった。自分は今、魂だけの存在としてこの闇の中を彷徨っていたのかも知れない。
声の主は淡々と言葉を続けた。
「何に生まれ変わるかね?また同じ人間として生きるか?あるいは違う生物を試すのも良かろう。お前の希望を配慮するゆえ、申してみよ」
申してみよ……と言われても困る。自分にははっきりとした記憶がなかったが、人間に対してそれほどいい印象はなかった。
だがふと、自分の記憶を探る中で人間として生きた自分の好きだったものを思い出した。先の人生の中でこれが大好きだった。自分のテーマだったと言っても過言ではない。そして確信した。次に生まれ変わるものはこれしかない。
――チョコレートに生まれ変わる。決めました。
声の主は黙り込んでしまった。しばしまた静寂が訪れた。返答を間違えたのだろうか……。実のところ"チョコレート"という単語とそれが好きだったということは思い出したのだが、それがなんなのかはわからなかった。
しかし好きだったものになれるのだから、これほど幸せなことはない。どんな仕事に就くか考えたとき、自分の好きなことを仕事に選ぶのが一番だ。ならば答えは簡単。チョコレートとして生まれ変わるのが一番いいのだ。
「チョコレート、か。それはまたずいぶんと渋い選択をしたな」
――自分の記憶を頼りに決めました。チョコレートが好きだった。だからチョコレートになりたいんです!
「宜しい。チョコレートはカカオマスを原材料としているお菓子だ。カカオマスはカカオの木に生る実から作られる。お前はカカオの木になるか?あるいは、カカオの実として生まれ、チョコレートになるという道もあるが……」
思ったより単純ではない事実に驚愕したが、冷静に考えるよう勤めた。
チョコレートがカカオの実からできるのならカカオの実になるのが一番の近道なんじゃないか?いや、待てよ。カカオの木として生まれ、カカオを量産し、たくさんのチョコレートを生み出す存在になるのも悪くない。チョコレートの父。……いい響きだ。
――じゃあ、カカオの木になります。それでいいです。決めました。
「了解した。お前は次の人生はカカオの木として生きるが良い」
この瞬間、自分の次の使命が決まった。カカオの木としてチョコレートの父になる。
新しい人生を歩むことに胸が躍った。これからどんなカカオの木としての人生が待っているのだろうか。世界中のチョコレートファンから大事にされることだろう。いや、チョコレートを愛するばかりに奪い合いになり、戦争が起きるかもしれない。それは阻止したいがカカオの木である自分にはどうすることもできない……。
次の人生に期待と希望、そして少しの不安が入り混じった心持ちでいると声の主は落ち着き払った声でこう付け足した。
「ただし、次の人生にうつる前にこれまでの人生との別れの儀式を行う必要がある」
別れの儀式とは「地球時間でいうところの49日間、前の人生の中で過ごし関わったものたちと決別する」というものだった。
声の主とのやり取りのおかげで少しずつ地球のなんたるかを思い出し、人間として生きた自分の時代背景のことも、おぼろげながらわかるようになっていた。
人間として生き、関わってきたものたちとの別れなどこれからカカオの木として生きることを思えば何でもないことだった。そんな儀式はさっさと終わらせてチョコレートの父となるのだ。
声の主は相変わらず老若男女わからない不思議な声で語った。男であり女であり子供であり老人だという風でまるでつかみどころがない。しかしこの声はとても心地の良い調子で語りかけてくるので不思議と信頼できた。
「地球時間で49日分しか時間は残されていないが、その代わりその時間内であればお前の前の人生のどの部分にもアクセスすることができる」
――どんな時間にも?
「"ここ"には時間というものがないのでな。"ここ"からならどこの人生へ――むろん、お前が生まれてから死ぬまでの間だが――好きな時間へ飛べるようになっている。そして自由に"ここ"へ戻ることができる。残された時間は49日分。ルールはそれだけだ」
――決別って具体的に何をすれば……?
「好きにすればよかろう。ではスタートだ。よーい、どん!だ。健闘を祈る」
それ以上声の主は何も語らなかった。
声の主が語らなくなり一瞬また闇と静寂が訪れたが、暗闇だけだった自分の目の前に突如、巨大な砂時計が現れ、上から下へと続くくびれた細い管を細かい砂が音もなくサラサラと流れ落ちていた。
ひっくり返して間もない様子の砂時計はまるでひょうたんのような形をしていて、隙間が見えないほど砂がびっしり詰まった上の部屋からこぼれ落ちた砂が、下の部屋の大きく広がる底辺の真ん中あたりに小さな三角形の山を作っていた。
これは自分に残された時間だ。49日間を計るためのものだということはなんとなくわかった。タイムリミットはこの砂時計の砂がすべて下に落ちるまで。しかし、いったい何をどうすればいいのか……。
とにかく己を知る必要があるし、この人生の始まり、生まれたところへ行ってみることにする。自分が何者だったのか少しはわかるかもしれない。
自分が何者なのか、どんな人生を歩んだのかを知ることは少し怖かったが、やるしかない。次のカカオの木としての人生を快適に送る為にも。
こうして今までの人間として生きた自分の人生と決別する旅が始まった―――