第二章・2
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西山 夕希は化粧室の鏡に顔を近づけ、左頬を膨らませた。顔を左に向け、逆の側も見ると、しばらくそこに居座っていた痣が消えているのを確認した。
「よし」
少し乱れている髪を手櫛でサッと整え、化粧を直すでもなく西山は病院の化粧室を出た。もともと、ほとんど化粧などしていないのだから、直す必要もない。
それでも西山の顔立ちは、目鼻立ちもはっきりとしていて、美人の部類に入る方だ。それなのに、化粧気もなく性格もどこか男勝りなのは、西山が霞野署、刑事課の刑事だからなのかもしれない。
今は以前起こった事件で、取調中の被疑者を逃亡させ、自殺を図るのを止められなかったとして、一ヶ月の謹慎中の身だ。
その際、被疑者から受けた暴行で、顔に負った傷を診てもらうため、こうして病院へと来ている。
切れて物を食べるのに不自由だった唇も、もうすっかり傷も消え、跡も残っていない。
自分の顔に傷ができるのを気にしたことはないが、周りはやはり女の顔に傷があるのは気になるらしい。この数日、外での自分をちらちらと伺う視線は、正直うっとおしかった。
それを思うと、傷が消えて良かったと思う。
謹慎もあと残り一週間。
西山は仕事に戻りたくてうずうずしていた。
大きな総合病院のロビーは平日でも、老人や子供連れで混んでいた。
アナウンスが患者の名前を呼ぶ。その名前に、西山は待合用の長椅子に目をやった。その名前には覚えがあったからだ。
『星野さん。星野 早苗さん。五番診察室へお入りください』
アナウンスが繰り返される。
西山はその人物を見つけて歩み寄る。椅子に浅く腰掛けたその女性は、首を深くうな垂れて居眠りをしていて、顔はふわりと緩くカールしたセミロングの髪に覆われ見えないが、間違いない。
「早苗?」
声を掛けるが反応がない。
「こら! 起きろ!」
「はいっ! すみません!」
ガバッと慌てたように立ち上がった女性に、西山は思わず声を出して笑った。
「……西山先輩」
女性、星野 早苗がポカンとして目の前にいた西山を見る。
どこか少し抜けたような、のんびりとした性格がその顔にも出ている。大人しく早苗らしい、ベージュのニットワンピースの裾がめくれているのを、西山は直してやった。
「久しぶり。元気だった?」
「はい……。お久しぶりです……」
何が起こったのか分からない、といった様子で答える早苗がおかしくて、西山はつい頬が緩んだが、早苗の首に当てられた湿布を見て、顔を曇らせた。
「早苗、その首は?」
「あ……これは……」
早苗が視線を逸らす。
「まさか、またあいつが?」
「違う、違うんです。これはただ、私が自分で寝ぼけて、ベッドから落ちちゃっただけで。たいしたことはないんですけど、やっぱり診てもらおうかなと思って」
「ならいいんだけど……」
探るような西山の視線を感じたのか、早苗は今度は自分から質問をしてきた。
「西山先輩は? どうして病院なんかに?」
「うん、実はちょっと取調中にドジってね。犯人にガツンとやられちゃって。しかも今謹慎中なんだわ」
「そんな。大丈夫なんですか」
「平気平気」
二人が立ち話をしていると、目の前の診察室から女性看護士が、少し苛ついたように出てきた。
「星野さん、いらっしゃらないんですか?!」
そうだ。アナウンスで早苗が呼ばれていたことを教えるのを、すっかり忘れていた。
「あ、はい! います。すみません!」
慌てて荷物を手にする早苗に、西山は訊いた。
「早苗、この後、時間って、大丈夫?」
「え? はい。今日は休みをいただいたんで平気ですけど」
「じゃあ、ちょっとお茶しない? おごるから。もう、ずっと家にいたら、なんか甘い物でも食べたくなって」
西山の言葉に、早苗はにっこり微笑んだ。
「ええ。喜んで」