第十章・4
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早苗が鈴とアパートを出ると、少し離れたところに停めてある車から、西山が出て来るのが見えた。
鈴は早苗の手を握りながら、それを強く引っ張るでもなく、早苗の半歩前を行く。早苗は鈴と運転席のドアにもたれるようにして待つ、西山の所へとゆっくり足を進めたが、
「星野?」
ふと足を止めた早苗に、鈴が自分も足を止め早苗を振り返る。
アパートの隣のビルの窓。大きなそこに映し出された鈴と早苗。そこには少年に手を引かれる、大人の女の姿があった。目の前の鈴の姿だけを見ていたから、つい自分もあの頃に戻っているような錯覚に陥っていた。でも、違う。もう、鈴に甘えることはできない。
早苗はそっと鈴の手を解いた。鈴が早苗を見る。
「有難う、朝日奈君。私、一人で大丈夫」
「……」
「もう、大丈夫だから」
「……分かった」
小さく笑って見せた早苗に、鈴は早苗から離れた手を、パーカーのポケットに突っ込んだ。
「バイバイ、朝日奈君」
「バイバイ……星野」
早苗は一人、西山の下へと向かった。
「お願いします。西山先輩」
しっかりとした声で早苗が言うと、泣き笑いみたいな顔をした西山が後部座席のドアを開け、早苗はそこに乗り込んだ。
ゆっくりと発進した車に、早苗はコートのポケットに入れてきた封筒を思い出す。取り出し、軽く留められた封を開く。二つに折りたたまれた便箋に、並んでいたのは四行の文字列。あの頃も思っていた、男の子の癖に綺麗な字。
手紙は、様付けされた早苗の名前から始まり、鈴の名前で終わっている。
短くて、それでいて、鈴らしい返事。
ふいに、手紙がぼやけて見えなくなったと思ったら、大粒の涙が早苗の目から零れ落ちていた。涙は止まらず手紙に落ちて、綺麗な鈴の文字を滲ませていく。しかし、文字が読めなくなっても忘れない。
『すごく嬉しかった。
ありがとう。』
早苗は手紙を抱きしめ泣いた。
◆◆◆◆◆◆
常磐は車が走り去った方を見つめ、ぼんやりと立っている鈴に、おずおずと声を掛けた。
「帰りましょう、朝日奈さん。……灯ちゃんが待ってます」
「一緒に行ったんじゃなかったんですか」
振り返った鈴は、西山と早苗が去った方を指差しながら言った。
「俺は朝日奈さんを蜃気楼まで、送る責任がありますから」
「一人で帰れます」
「俺が怒られるんで色んな人に……」
「一人で、帰りたいんですよ」
それはささやかで、ちっぽけな願いで、出来る事なら常磐もそうさせてやりたいと思う。
「あ、あの、離れて付いて行きますから。俺のことは気にしないでください。……その、空気だと思ってくれてていいんで!」
常磐の言葉に、鈴は呆れたような視線を常磐に向けると、早速、常磐を空気と思うことにしたのか、蜃気楼へと向かって歩き出した。少し遅れて、常磐は後ろから付いて行く。鈴の後ろ姿は小さく、勝手な考えかもしれないが、どこか寂しそうだった。
「あの、朝日奈さん……」
「空気はしゃべらない」
振り返りもしない鈴にピシャリと返される。少しくらい、話をしてくれてもいいのに。
「……あの、ですね」
「わー! 誰もいないのに声が聞こえるー。怖いよー!」
鈴は両手で耳を塞ぎながら言うと、二、三歩駆けるようにして常磐から離れて行ってしまった。
黙って付いて行くしかなさそうだ。
朝日奈さん。
あの人は今でも、朝日奈さんの事が好きだったんですよ。
言えなかった言葉を、ぐっと喉の奥に押し込む。でも鈴は、おそらく常磐がそんなことを言わなくても、早苗の気持ちにちゃんと、気づいていたのではないかと思う。鈴は今の早苗のことをどう思っていたのだろう。
呼吸をするたびに感じる、胸を上から押されるような小さな息苦しさは、星野に同調していたときの名残だろうか。
ひんやりとした風が頬を撫で、どこからか飛ばされてきた淡いピンクの花びらが、常磐の前を舞い落ちる。
常磐は、ずいぶんと開いてしまった鈴との距離を縮めるように、ほんの少しだけ歩く足を速めた。
【夢わたり《其の四》・完】
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【夢わたり・其の四】はここで終わりです。
お話は【夢わたり・其の伍】に続きます。




