第十章・3
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その日、仕事から帰宅してドアを開いた早苗を、待ち伏せしていたのは岩下 慶一だった。
開いたドアから強引に、部屋に上がりこんできた岩下は、最後に早苗が見た記憶より、頬はこけ目は窪み、ひどい様相になっていた。
「出て行って。警察を呼ぶわ。あなたは私の傍に近づけないことになってるのよ」
「ひどいな早苗。俺のこの有様を見てくれよ」
震える声で懸命に強くでた早苗に、岩下は薄ら笑いを浮かべながら嘆いた。
「あれから三年経ったのよ。自業自得だわ」
「頼むよ早苗。少しでいいんだ。金を貸してくれないか。このままだと俺は殺されちまう。一度は夫婦だった仲じゃないか。助けてくれよ。なぁ、早苗」
肩に回される岩下の腕に、身の毛がよだつような嫌悪を感じる。ダメだ。ここで金を渡したら、二度三度とせびりにくるようになるだろう。黙って岩下から顔を背ける早苗に、岩下の目に憎悪の色が浮かぶ。
「ああ、そうかよ。なら、仕方ねぇ。……そうそう早苗、お前、また結婚するんだってな」
早苗は驚愕に見開いた目で岩下を見た。なぜ。知り合いにもまだ、知っている者は少ないというのに。
「俺が知らないとでも思ったのかよ」
岩下はニタリと笑みを浮かべた。
「いい男じゃないか。仕事ができて、愛車は高級なスポーツカー。家はセキュリティも万全な新築マンションの最上階。名前は確か、赤井とかいったっけな」
早苗は体から血の気が引いていくのを感じた。そこまで調べているのか。いったい何のため。
「お前が助けてくれないなら、そいつに頼んでみることにするよ」
「え……」
「いかにも正義感に溢れてますって感じの、スポーツマンじゃないか。お前のためなら、なんでもしてくれるだろ? なぁに。百万ちょっとなんて金、あの男にはたいした金じゃないだろうさ」
何てことだ。岩下は赤井に目をつけたのだ。
「お前はいいな、早苗。お前を守ってくれる奴が傍にいて。気にすることはない。ああいう男は、お前みたいな女を守ってやってるってことに、のぼせて快感を感じてるんだ。守らせてやればいいんだよ」
確かに、赤井は早苗を守るためならば、岩下の言うことを聞いてしまうに違いなかった。金で解決するならば、すぐにでも用意するだろう。そして、一度でも金を渡したなら、岩下がどんどんつけ上がっていくのは目に見えていた。
「勤め先も、この不景気の中、なかなかいい業績をあげてるみたいじゃないか」
元々は、自分で企業を起こすほどの人間だったのだ。岩下が赤井の勤め先を調べるのも、難しいことではなかったのかもしれない。もしも、岩下が赤井の勤め先にまで押しかけるようになったら……。
「やめて……」
小さく呟いた早苗に、笑みを浮かべていた岩下の顔が、憎々しげに歪んだ。
次の瞬間、鋭い平手が早苗の頬を打った。突然のことによろける早苗。何かに掴まろうと、伸ばした手は虚しく空を滑り、壁際にある棚の上の物をなぎ倒す。床に倒れた早苗の胸倉を掴んだ岩下が、今度は逆の頬を打った。
「まったく、大人しそうな顔しやがって。お前がこんなに男を引っ掛けるのが、うまいとは知らなかったぜ」
やめて。
「どうして、お前だけ幸せになって、俺だけこんな目に合わなきゃならないんだよ!」
やめて。
「どうして、お前だけ!!」
もう一度打たれた頬に、早苗は床に伏せた。痺れて熱い頬を押さえる。
床には棚から落ちた裁縫道具が散らばっていた。
岩下が何か怒鳴り散らしながら、再び腕を振り上げる。
早苗は目の前に落ちていた、大きな断ち切りバサミを握り締めた。
◆◆◆◆◆◆
「私はいい……。私なら別にいいの……。私なら我慢できた」
でも、他の誰かにまで手を出すなんて許せない。
赤井に手を出すなんて許せない。
そんなこと絶対にさせない。
絶対に――。
膝の上、両手を握り締める早苗に、鈴は静かに立ちあがった。早苗はそれを目で追いかける。
「星野、行こう」
「…………一緒に行ってくれるの?」
「邪魔ならやめとくけど?」
そう言ってまた、早苗の答えを待つ鈴に、あの日のように首を振ることはできない。迷う早苗の前に、鈴の手が差し出される。早苗は躊躇いながら、そっとその手に自分の手を重ねた。
◆◆◆◆◆◆
道路脇に止めた車の中、西山はサイドミラーで早苗のアパートを見る。早苗と話がしたいと言った鈴に、西山は待つことにした。
アパートの裏手には、常磐を待機させている。鈴は早苗と逃げるなどということはしないだろう。そう思いながら、できるなら鈴が、早苗を連れてどこか遠くへ、逃げてしまってくれればいいのにとも思う。そして、そんなことが起きないことは分かっている。
携帯電話が振動して、西山は電話に出た。
「はい。西山」
『東田だ。見つかったぜ』
ぶっきら棒な東田の声。
「……どこに」
東田の働きなんて、無駄骨になれば良かったのに。
『星野早苗のアパートから、たいして離れてないドブ川だ。近所じゃ有名な、粗大ゴミの不法投棄場所になってる。別に隠してる風でもなく、無造作に旅行用のキャリーケースに押し込んで、ゴミと一緒に捨ててあった』
「そう」
『もう少し暑くなってきてたら、まあ、だいぶ臭ってきてたかもしれねぇけどな』
そのとき、サイドミラーにアパートから出てくる、早苗と鈴の姿が見えた。
「有難う、東田。また後で連絡するわ」
西山は電話を切ると、車から出た。