第九章・2
―2―
苦しい。
うっすらと開いた目に映るのは、黒い木々の陰。
耳に聞えるのは、ギシギシと軋む枝の音。
苦しい。
なぜ死ねないのだろう。
私は死ななければいけないのに。
重力のまま、下へと向かう自分の体重が、すべてかかる首の縄。
それは深く深く、首へと食い込み喉を絞め上げる。
なのに死ねない。
地面を求め、伸ばしたつま先が空を探る。そのたび揺れる体に、首の縄が擦れて痛む。
外そうと指で引っかくが、あまり肉のないはずのそこへ、すっかり埋まった縄に指はかからない。
苦しい。
苦しい。
目尻に涙が溜まって流れて落ちた。
飲み込めない唾液が口の端を伝う。
もがいて足掻けばゆらゆらと、ブランコを漕いでいるみたいに揺れる自分が滑稽だった。
そのとき――
チリン
耳に涼やかな音色がした。
すると突然、見上げた頭上で、縄がぶつぶつと音を立て、はじけていく。
どうして……。
縄はどんどん細くなり、数秒とかからず、ぶつりと呆気なく千切れた。
落ちる。
そう思ったとき、ふわりと柔らかな感触に包まれた。地面に無残に叩きつけられるはずだった体は、綿毛が舞い落ちるときのように、そっと地面に着地する。
へたりと座り込んだ自分を、包み込む強い腕。
「もう大丈夫」
静かな男の声がそう言った。
優しく背中を撫でる男の手に甘え、その胸に顔を埋め呼吸を整える。
――これは誰なのか。
こんな男を私は知らない。
でも分かる。
この人は……。
「もう大丈夫だから」
もう一度言われて確信する。
「朝日奈君」
掠れる声で名を呼んで、その広い背中に腕を回す。図々しいほどに力を込める手に、鈴はされるがまま、優しく抱き返してくれる。
鈴は頭を撫でながら耳元に顔を寄せ、小さな声で囁いた。
「目を覚ませ、常磐さん」
◆◆◆◆◆◆
常磐はハッと息を呑みながら目を開けた。次に自分の意思を取り戻した体が、急に肺へと酸素を送り、ゲホゲホと激しく咳き込んだ。
「目が覚めたかい」
大酉の声に起き上がれないまま、そちらを見る。いつになく険しい顔をした大酉がそこにいた。
なんとか体を起こそうとすると、手首に違和感がある。仰向けになった常磐の左手首を、鈴が上から掴んでいたのだ。常磐の手首を掴んだまま、鈴は常磐の傍らで眠っていた。
「離せなかったから」
大酉が言いながら常磐の体を支え、起き上がる手助けをしてくれる。
首がヒリヒリする感覚に、目で見えないそこを、開いている右手で探るように確認すると、指についたのは乾いた血だった。
「自分で掻き毟ったんだよ」
大酉からお絞りを渡され首を拭うと、白かったそれが赤茶く汚れた。
大きく息を吸い、ゆっくりと酸素を肺に取り入れると、ようやく常磐はちゃんと現実に戻ってきたことを認識する。
早苗は首を吊ることも考えていたのか。
傍らでまだ目を覚まさない鈴を見る。
鈴はまだ、早苗の夢の中にいるのだろうか。今頃、二人でどうしているのだろう。
常磐の手首を握る小さな手。そっと触れると力なく、それは簡単に外すことができた。常磐はそこに敷いたままになっていた布団へ、鈴を運ぶ。
目の前の鈴は幼いままだ。でも夢の中、自分を……いや、早苗を抱き寄せたその腕は、耳元で聞えた静かな声は、間違いなく大人の男のものだった。
普通なら、おそらく鈴がなっていたであろうはずの、現在の鈴のものだった。
そのとき、鈴が静かに目を開いた。
「鈴さん」
大酉が鈴を起こす。
「すぐに霧藤さんを呼びます」
しかし鈴は首を振った。
「大丈夫、いらないよ」
大酉はそれを聞くと、いつものように鈴に茶を差し出した。それを一口飲んでから、鈴は常磐の方を見る。
「平気ですか」
珍しく自分を気遣う言葉に常磐は戸惑う。
「はい」
「常磐さん、一つ頼みがあります」
その言葉に、常磐は黙って頷いた。