第九章・1
第九章
―1―
鈴は目を覚ますと上体を起こし、目頭を指で摘まんだ。ぼんやりとした視界で辺りを見回した鈴は、そこにあったものに顔を顰めた。部屋の隅っこ。大きな体をちぢこめるようにして膝を抱え、そこに顔を埋めながら、常磐が丸くなっていた。
声を掛けようと開けた口を閉じ、鈴はそろりと立ち上がると、鈴が起きたことに気づいていない常磐の様子を伺った。顔は見えないが、規則正しい寝息が聞えてきて呆れる。
「大酉」
戸を開いて名を呼ぶと、大酉が厨房の方から顔を出す。
「あ、鈴さん。お目覚めですか」
「うん」
「先ほど灯ちゃんから電話がありました。今日は友達に誘われて、どうしても断れなかったらしく、外で夕飯を食べてくるそうです」
「……なんだそうか。まあ、たまにはいいんじゃないか」
灯は以前は真夜中に帰ってくることもあったが、今ではほとんどない。鈴はそれを咎めたことはないので、灯が“どうしても”というほど、友人の誘いを断らなければならない理由はないはずなのだが。
「じゃあ、鈴さんはどうしましょうか」
「俺は別にいいよ。簡単で。そんなに腹も減ってないし。大酉の食べたい物で」
「菜の花を頂いたので、辛し和えを作ろうとは思うのですが」
「ああ、いいな。美味そうだ」
ほのかな苦味が魅力的な春の味に、つい声が弾んだ鈴だったが、大酉に訊こうとしていたことを思い出し、また眉根を寄せた。
「……そうじゃなくて、あれ。なんだあれは」
丸まって眠り込んでいる常磐を指差し訪ねる。店の柱にある黒縁の古めかしい時計は、鈴の記憶にあった時刻から、すでに針が一周以上回っている。
「おや、寝ちゃったんですか。さっきまで健気に正座して待っていたんですけど」
大酉が座敷を覗き込む。
「どうしても鈴さんの目が覚めるまで、待たせてほしいということだったので」
「邪魔だから外に放り出してくれ」
「またまた。そんなひどいことを。今、片付けを終えましたら、すぐに夕飯の準備をしますから」
大酉は笑いながら厨房の奥へと行ってしまった。
鈴は大きな溜息をつくと、続いて出た欠伸のせいで、涙の滲んだ目を擦る。顔でも洗おうと座敷の上がり口を下りたそのとき、背後でドサリという音がした。
鈴は座敷部屋を振り返った。部屋の中では、先ほどまで壁を背に丸まっていた常磐が、床に横になっている。寝ぼけて体勢が崩れただけかと思った鈴だったが、何か様子がおかしい。そもそも、結構な音を立て倒れたのに起きる気配がまるでない。
すると、もぞもぞと常磐の体が動いた。両の足が奇妙に畳みを擦るように蹴っている。
「……常磐さん?」
部屋の中に戻った鈴は、常磐の傍へと近づき目を見張る。そのときの常磐は、もはや明らかに、何かに苦しみもがいていた。まるで溺れているように足をじたばたとさせ、手で首を掻き毟っている。舌を覗かせた口は、なぜか必死に酸素を求めていた。
「常磐さん!」
鈴は常磐を仰向けにすると、自らの首に爪を食い込ませる、常磐の両手をなんとか引き剥がし、顔の両側で畳に押さえ込む。
常磐は夢を見ていた。それも他人の悪夢を。
「常磐さん、起きろ! 常磐さん!」
しかし、いくら呼びかけても常磐は夢の中に行ったままだ。
その力は強く、力の弱い鈴の手では、このまま押さえ込んでおくことは出来ないだろう。もがく常磐の膝が脇腹に当たり、鈴の顔が苦痛に歪んだ。鈴の目の前にある常磐の首は、自ら引っ掻いたことで皮が捲れ、血が滲んでいる。
「――大酉ぃっ!!」
叫ぶように言った鈴は、座敷の入り口に駆けてきた大酉の姿を確認すると、
「行ってくる。後は頼んだ」
そう言って、常磐に覆いかぶさり、その額に自分の額を押し付けた。