第八章・3
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「……読めなかった? どうして?」
返事をもらえなかったと言った早苗の、寂しそうな顔を思い出し、西山はつい責めるような口調になる。鈴は何かを思い出すように、一度閉じた目をまた開くと、ぽつりぽつりと話し出した。
「あの日は……友達が家に泊まることになっていて、帰りも門の前で待ち合わせしてたんです。星野が手紙をくれたのは門を出た後で、すぐに待ち合わせしてた友達が来てしまって……。だから、手紙は鞄に入れたままだったんです。結局、そいつは夜には帰ることになったんですけどね。後で、寝る前にでも一人でこっそり読もうと思ってて――――気がついたときには十三年が経っていました」
そこで途切れた鈴の話の意味が、すぐには分からなかった西山は、次の瞬間ハッと息を呑んだ。思いもしないことだった。早苗が鈴に手紙を渡したのはあの日、あの『朝日奈一家惨殺事件』があった日のことだったのだ。
「……ごめんなさい。考えが足りなかったわ。そうね。君なら、ちゃんと返事をするはずだもの」
「気にしないでください。もう十五年も前のことですから」
謝罪する西山に対し鈴は、まだ二年前みたいなものと言っていた日を、今度はもう十五年前と言う。そんな鈴を、頭の回転の早い人間だと西山は思う。明るくて頭が良くて、運動神経も良くて優しくて……。目の前の鈴は早苗の言っていた思い出の人物とは、少し違う気もしたが、
「あー。やっぱ、すぐに読んでおけば良かった。もったいないことしたぁ……」
急に子供みたいな口調になって天を仰いで言った鈴に、つい顔がほころんだ西山は理解した。
ああ。十五年前、確かに早苗はこの人間に恋をしたのだと。
「星野に何かあったんですね」
突然現実に引き戻すような鈴の声がして、西山はほころばせた口元を強張らせ鈴を見る。すると鈴の漆黒の瞳がこちらを真っ直ぐに見ていた。逸らすことの許されないその瞳を、西山はじっと見返す。
「どうして。一緒に共通の友人について話をしたいと思うのは変?」
「そうは言っても、この店に入ってきたときから、こうして話している今も、最初からあなたはずっと刑事の顔だ」
言われて思わず、西山は顔に手をやった。刑事の顔。
「……そう。そうでしょうね。もう、癖なのかな。私、早苗の前でもこんな顔してたのかしら」
「そんなの星野には関係ないんじゃないですか。あなたが何であっても、星野にとってあなたは西山先輩でしかない。たとえ、あなたが刑事として星野と接しようとも」
本当にそうだろうか。
「星野はたぶん、そんな感じだ」
また突然、鈴が口調を変える。なんだか曖昧で投げやりで、西山を少し馬鹿にしたようなそんな口調。そんなことも分からないのかとでも言うような。
「星野の友達として、俺が話せるのはそのくらい」
そうだ。知っている。自分も知っているじゃないか。早苗がどんな人間なのか。おそらく鈴よりも知っているはずのことだったのに。そして自分が自分でしかないことも。
西山は立ち上がった。
「有難う。やっぱり君と話せて良かった」
◆◆◆◆◆◆
西山が部屋から出てきて、常磐は椅子から立ち上がった。
「お待たせ」
座敷部屋から出てきて言った西山の声は、ここへ来るときにあった迷いのようなものが消え、いつもの歯切れのいいものだった。
「すみません。お茶、ご馳走様でした。また、今度はちゃんと客として伺います」
「お待ちしてます」
西山が言うと、大酉は丁寧にお辞儀をした。
「それじゃあ、私帰るわ。常磐も鈴君と話があるんでしょ」
「はい」
「じゃあ、明日。常磐、あんたには感謝してる」
常磐の肩をぽんと叩き、店のドアを開ける西山の背を見ながら常磐は、そういえば明日から西山が署に帰って来るのだということを思い出す。最後の言葉の意味はなんだろう。自分は西山に感謝されるようなことをした覚えはない。
常磐は西山が閉じた座敷の戸の前に立った。
「朝日奈さん、常磐です」
今日はどんな辛辣な言葉で拒絶されるかと思ったが、返事はない。
「朝日奈さん」
もう一度呼びかけるが、部屋の中は静まり返っている。とうとう完全に無視をされるようになったかと、やるせない気持ちになった常磐だったが、ふと思い立ってそっと戸に手を掛けた。
ピッタリと閉じていた戸を開くと、わずかに聞えてきた息づかい。
やはり。
机の上、細い腕を枕に鈴は眠ってしまっていた。『眠り病』だ。大酉がそれに気づいて座敷部屋に上がる。
「あの、何か手伝いましょうか」
「じゃあ、そこにある布団を広げてもらえるかな」
鈴の体を軽々と(まあ鈴の体は本当に軽いのだが)抱えて言った大酉に、部屋の隅、衝立の奥に畳まれている布団を常磐は広げた。
「それで常磐君はどうするのかな」
鈴の体を布団の上に横たえながら訊く大酉に、常磐は鈴を見た。いつも悪夢を見ているという鈴の寝顔は極めて安らかだ。常磐は鈴の傍らに膝をついた。
「すみませんが待たせてください。朝日奈さんが目を覚ますまで」