第七章・3
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早苗はどこか遠くを見るように、視線をビルの壁しか見えない窓の外へ向けた。
「朝日奈君は、なんか不思議な子だったんです。みんなに人気のある子なんて、私、絶対に近寄れないって思ってたのに、朝日奈君は本当に誰とでも仲が良くて。私みたいなクラスでは地味な子にでも、普通に話しかけてくれたし。そんなに話せる機会なんてなかったんですけど……。でも、朝日奈君とは、私もすごく自然に話せたし、それがすごく楽しかったし」
鈴の事をとても大事そうに話す早苗に、西山は目を細める。
「明るくて頭も良くて、運動神経も良くて。それに優しくて……。背は確かに少し小さかったけど」
そう言って、何かを思い出したように早苗はくすりと笑った。
「思い出なので、美化されてるかもしれないんですけど、本当に私には、すごく眩しい存在だったんです。なのにすぐ傍にあって……手を伸ばせば、もしかして、私にも届くんじゃないかって思ってしまうくらいで」
「伸ばせば良かったのに」
「ええ。私、実は朝日奈君に手紙を書いたんですよ」
「それって、ラブレター?」
「はい。今でも、よくあんなことできたなぁって思います」
「ええっ!それで? それでどうだったの?!」
わくわくしながら訊いた西山に、少し寂しそうに早苗の笑顔が曇った。
「返事は……貰えなかったんです」
「え? そんな。なんで」
「それで良かったんですよ。朝日奈君は憧れのままで」
誤魔化すように笑った早苗に、西山は納得いかないようにテーブルに頬杖をついた。肘が皿から出ていたフォークの柄にぶつかり、フォークがテーブルの下に落ちる。
「あ、ごめん!」
慌ててテーブルの下を覗き込む西山。
「……大丈夫ですか?」
西山の顔がなかなか上がってこないことに、早苗もテーブルの下を覗こうとしたとき、西山がフォークを持って顔を上げた。
「ごめんね。布巾持ってきてもらえるかな」
「あ、はい。ちょっと待っててくださいね」
早苗は再びキッチンに向かうと、水で濡らした布巾を絞って持ってきた。
「どうぞ。服とか汚れませんでした?」
「有難う。大丈夫」
西山は布巾で床を拭いて早苗に返し、立ち上がった。
「それじゃあ、そろそろ帰るわね。本当に、いきなり来て悪かったわ」
「いいえ。楽しかったです」
「早苗」
「はい」
西山は何かを言おうと口を開いたが、それを一旦つぐみ、もう一度改めて口を開いた。
「今度、もう一度会ってくれない?」
「え?」
「明後日。もう一度だけ」
「……」
早苗は困った表情で視線を落とし、何かを考えている。
「お願い。大事な話があるの」
「……分かりました。じゃあ、明後日」
早苗が強引な頼みを断りきれない性格だと知っていて、それでも頼み込む西山の大真面目な様子に、早苗は頷いた。
◆◆◆◆◆◆
西山が早苗のアパートを出ると、目の前の駐車場に見覚えのあるスポーツカーが止まった。中から出てきたのはもちろん、赤井だった。
「こんばんは」
西山が声を掛けると、赤井が驚く。
「ああ、あなたですか。確か、早苗の先輩の。どうも」
「早苗に会いに?」
「ええ。あなたは。何か早苗に用が?」
「ええ、ちょっとね。赤井さん、あなた、早苗のことは知ってるのよね。その……」
「前の夫のことですか? そのことなら、早苗から聞いてます」
赤井はあからさまに不愉快そうな顔をした。
「すみません。早苗がお世話になってるということですが、これは僕たち二人のことなので」
「ごめんなさい。でも、岩下を逮捕したのは私なの。私は刑事だし」
赤井が目を丸くする。
「そうだったんですか……それは、失礼しました」
「だから岩下のことはよく知ってるし、早苗がそのことでどのくらい苦しんだかも知ってる」
赤井は西山が何を言おうとしているのかを察したようだった。
「確かに、結婚に関しては少し強引に話を進めています。早苗はまだ早いとも言っていましたし」
「待ってあげることはできないの」
「実は……まだ決まったわけではないので、早苗には言っていないんですが、来年あたり海外への赴任の話が来ているんです。早苗には、一緒について来てほしいと思っています」
「……そうなの」
なぜか俯く西山に、赤井はあの自信に満ち溢れた声で言った。
「安心してください。これからは、僕が早苗を守りますから」
◆◆◆◆◆◆
西山は今頃、赤井がいるであろう早苗の部屋を見上げた。
なんでなの、早苗。
本当にドジなんだから。
昔からそうだ。いつも肝心なところでちょっと抜けていて、そこが早苗のいいところでもあったのに。
おそらく早苗なりに痕跡を消したつもりだったのだろう。色々と処分もしたのだろう。いなくなるときのために綺麗に掃除までして。
……いや、違う。
こんなこと、普通なら気がつかないのだ。自分が本当に友達として早苗に会いに来たのなら。早苗に刑事としての疑惑を持って会いに来たのでなければ。
落としたフォークを拾うため覗き込んだテーブルの下。
その天板に近い部分の足に付いていた物。すっかり乾いて黒くなっていたが、西山にはそれが何か分かる。そして、うっすらと指紋が見て取れるそれが、そんなところに付くのが、どういう状況なのか。
“誰かが血の付いた手でテーブルの足を掴んだ”というのが、どういう状況なのか。
西山は携帯電話を取り出して電話を掛けた。
『なんなんだ、お前。今度は直接携帯に掛けてきたのかよ。借りなんかもう知らねぇぞ』
何度目かの着信音が途切れると、すぐに聞えてきた東田のぶっきらぼうな声。
「東田。捜して欲しいものがあるの」
『ああ? なんだよ。机の上か? 引き出しの中か』
署のアルミのデスクをがちゃがちゃと漁る音がしてきた。
「そんなとこにないわ。隠してあるわけじゃないと思う。そんなことできる子じゃないし」
『は? 何言ってるんだ』
「たぶんすぐ近く。家からそんなに離れてないところにあるはずだけど」
『いったい何を捜せってんだよ』
訳が分からないといった声の東田に、西山は淡々と言った。
「岩下の死体を捜してほしいの」