第七章・2
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「ごめんね突然。迷惑だった?」
謝る言葉とは裏腹な、満面の笑顔の西山に、早苗も笑うと首を振った。
「いいえ。電話貰ったときには、ちょっと驚きましたけど」
「はいこれ。お土産」
「あ、ここのケーキおいしいですよね」
「そうそう。私、そこのフルーツタルト、いつも売り切れで買えたことなかったんだけど、今日は朝から並んでやったわ」
ふふんと自慢げに言った西山に、くすくすと早苗は笑う。
「仕事、いつからでしたっけ」
「うん、明後日から復活」
早苗は西山を部屋に通すと、キッチンでケーキを皿に移す。
1Kの質素で小さなアパートの一室。西山は部屋の中央に置かれた、低いテーブルの前に座った。
この部屋には西山も以前一度来たことがある。早苗が離婚して、この部屋に引っ越すときに手伝ったのだ。岩下から離婚の慰謝料を請求しなかった早苗には、この小さな部屋を借りるので精一杯だった。
日の暮れた窓の外は、昼間でも薄暗いであろうビルの壁。
それにしても――。
西山は部屋に違和感を覚えた。
部屋は綺麗だった。綺麗すぎるくらいに片付いていた。確か西山が引越しを手伝ったときには、敷いてあったはずのラグもなくなっているし、なんというか、業者に掃除をしてもらったみたいに、隅々まで掃除されていて生活感がない。捨てるつもりなのか、部屋の隅には本がまとめて束ねられていた。
「引越しでもするの?」
お盆に紅茶とケーキを載せてきた早苗に、思わず訊いた西山に、早苗がキョトンとする。
「え、なんでですか」
その言葉は、そんなつもりがないことを表している。
「ううん。ほら、赤井さんとはいつ一緒に暮らすのかなぁと思って。家はもう決めてるの?」
「あ、いえ、まだ全然。私がぐずぐずしてるもんで」
「早苗はのんびり屋だからねぇ」
顔を赤らめる早苗に、西山は微笑む。
「まあ、急ぐことはないわよ。良かったね早苗。まったく、いいなぁ! 爽やかスポーツマンか!」
嘆くように言って西山はフルーツタルトを頬張った。早苗も自分のタルトにフォークを刺す。
「西山先輩なら、素敵な人がすぐに見つかると思うんですけど」
「私? ダメダメ。向かないの私。家庭的とか、そういうの」
「もったいない……」
西山は心底残念そうな顔をする早苗ににじり寄ると、からかうように肩を抱いて言った。
「それで、いったいどうやって爽やかスポーツマンを射止めたんだ。このぅ」
「そんな、射止めたなんて」
困ったように視線を逸らす早苗。
「赤井君とは去年、会社の人と行った旅行で会ったんです。スキーのツアーだったんですけど、私はスキーなんかできないからって、断ったのに……」
「断りきれなかったのね」
「案の定、足首を捻挫しちゃって。雪の上にしゃがみ込んでた私を、背負ってコテージまで運んでくれたのが、同じツアーで来ていた赤井君だったんです」
「もう! 何よ。そのベタな展開!」
天を仰いだ西山に早苗が笑う。そして、早苗は真面目な顔で言った。
「赤井君には、本当に感謝してるんです。彼はあの事を知っても、私の傍にいると言ってくれました」
あの事というのは、もちろん、前の夫の岩下のこと。
「そう。彼なら早苗をちゃんと守ってくれそうだものね」
「……ええ。そう。そう……ですね。あ、紅茶。お代わり持ってきますね」
「え、ああ。有難う」
一瞬、早苗の顔が曇ったような気がしたが、空のカップをお盆に載せて立ち上がった早苗は、元通りの笑顔だった。
「良かった。ちゃんと赤井さんの事が好きなのね」
西山の言葉に、紅茶を入れている早苗が驚いた表情で西山を見る。
「ちゃんと?」
「早苗は、強引な相手には断りきれないところがあるから。もしかしてと思って」
「嫌だ。私だって、そんな大事なことくらい、ちゃんと断れます」
頬を膨らませた早苗に、西山がまた少しからかうような笑みを見せた。
「それに、鈴君のこともあるし」
「……朝日奈君?」
「私が気づかないとでも思ってるの? 早苗、鈴君のことが好きだったでしょ」
面食らったような早苗の顔が、見る見る赤くなるのが分かる。
「そ、それは、子供の頃の話で」
「ほら、やっぱり!」
「あ……で、でも。だから、それは子供の頃の話で」
「あら、不思議じゃないでしょ。子供の頃の恋が再燃したって」
「ないですよ」
あっけらかんとした西山の物言いに苦笑すると、早苗は紅茶を口に運んだ。
「朝日奈君は……憧れみたいなものだったんです」