第六章・3
―3―
早く死ななければ。
生暖かな湿り気を帯びた浴室。
足を伸ばして入ることなどできない小さめのバスタブには水が張ってある。
袖を捲った左肘の内側。
手首よりも心臓に近いそこに見える、青い血液の通り道へ、右手に持った剃刀をそっと押し当てる。
ひやりと冷たい金属の感触。
刃が皮膚の一番上を薄く裂き、血が腕に赤い線を描きながらバスタブの中へ溶けていく。
後はこの右手を引けばいい。
鋭い刃は肌を滑るように肉を切り開き、私の命は流れ出る。
そう、後はこの右手を。
……なぜできないのだろう。
何をためらうのか。覚悟は決めたはずだった。なぜ今になって。
『生きたい』
そう思ってしまった自分がいる。なぜ。なぜ今さら。
こんな私など、あの人も軽蔑するに違いない。それは死ぬより辛い。
ああ、そうだ。
それはきっと死ぬより辛いだろう。
どちらにしろ、私はもうあの人に会うことは許されないのだ。
赤が滲む水の中、浸したこの手はすでに、真っ赤に染まっているというのに。
もう一度あの人に会うなんて。
握り直した剃刀を深く肌に押し当てる。
そして肌に食い込んだその刃を一気に引き抜いた。
◆◆◆◆◆◆
「――っ!」
常磐は思わず跳ね起きた。
自宅の布団の上、夢の中で切り裂いた左腕を押さえてうずくまる。
心臓が破裂しそうに打つ。
苦しい。
うずくまったまま、浅い呼吸を繰り返す。またあの夢だ。あの、自殺希望者の女性の夢。
嫌な感覚だった。
常磐は左腕を切った経験がある。そのせいか、夢の感覚が妙にリアルに腕に伝わってきた。
以前、霧藤が痛みの経験と記憶について話していたことを思い出す。鈴の体は過去の火傷の経験と記憶から、かけられた水を熱湯と勘違いした脳によって、水でも火傷をしたという。
ごくりと唾を飲み込むと、常磐はおそるおそる左腕を見た。以前、腕を切ったときの傷跡が残るそこは、もちろん実際に切れてなどいない。しかし、指先は細かく震え、どくどくと血管が脈打っているのを感じる。
大きく息をつくと、常磐は体の力を抜こうとした。
あれは夢。他人の夢。
こちらが自分の現実。
落ち着け。
落ち着け。
自分に言い聞かせながら夢を思い出す。小さな心境の変化があった。死に対しての迷いを感じ始めていた。いったい彼女に何があったのだろう。あんなに死ななければと思っていた彼女に、生きたいという思いを与えたものはいったい何なのか。
『あの人』
それが誰のことなのか……。
すべて頭の悪い自分の憶測にすぎない。
霧藤が言っていた、常磐の夢が自分の身近に起こるであろう、事件に対する予知の用な物ではないかという言葉。自分が同調するのは犯罪者というルール。自殺希望者の夢と鈴への恋心の夢が、同一人物の物なのではないかという言葉に、勝手な想像を膨らませただけなのだ。
彼女は星野 早苗かもしれない、と。
二日かけて調べた早苗は、常磐の印象と何の違いもなかった。大人しく、真面目で目立たず、誰も早苗について悪い事をいうものはいなかった。
ただ、赤井との結婚について知っている者は、早苗の周りにはいなかった。それだって、なんの不思議もないのだ。前の結婚のことが傷になっているのかもしれない。
早苗に自ら命を断たなければならないような罪なんて、あるはずがない。むしろ、調べて分かったのは、早苗の以前の夫、岩下から受けていた被害のこと。そう、早苗は被害者だ。
そこまで考えて、嫌な声と顔を思い出した。
事件の全部が全部、加害者は悪い奴、被害者は可哀想とは限らない。正義は綺麗なんて頭だと、目の前に見えてるものまで見えなくなると言った東田のこと。
あのオッサンは余計なことを。
いいじゃないか。早苗は可哀想な被害者で。
考えながら、そうじゃないということは分かっている。
行方は分からないということだったが、あの客引きは、岩下がいつ殺されてもおかしくないと笑っていた。
いつ殺されても。
常磐は震えの治まった手を見た。
夢の中、真っ赤に染まっていると言っていた手。
これだけはハッキリした。
やはり彼女の罪は殺人だ。