第六章・2
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夜の十時を回った頃。ドアのチャイムが鳴って、西山は覗き窓の向こうにヤクザな鬚面の男を確認した。
こんな時間に。
スウェットの上にもう一枚上着を羽織って、呆れながらドアを開ける。
「何よ。わざわざ来なくてもいいのに」
「ついでだよ。ついで」
いったい何のついでなのかは分からないが、そう言うと東田は遠慮なく部屋に上がり込んできた。
1DKの綺麗というよりは、どこか殺風景な部屋。必要な家具の他に余計な物はない。謹慎の身になるまでは、普段、家でのんびり……ということが少なかったせいかもしれない。
ただし、カーテンとベッドカバーは、端に花の模様をあしらった、柔らかで女らしいピンク色。その部屋の半分近くを占めるベッドにどかりと座って、東田は西山を見た。
「西山、お前太っただろ」
「……うるさいわね。あんたはそっち、床に座りなさいよ。煙草臭くなるでしょ」
久しぶりに顔を合わせたとたん、失礼なことを口にする東田にクッションを投げつけて、西山はキッチンへと向かった。
「紅茶でいい?」
「コーヒー」
「紅茶でいいわね」
紅茶を入れて戻ってきた西山は、投げつけたクッションを枕に、東田がベッドに寝そべっているのを見て溜息をついた。
「それで、どうだったの。常磐はやっぱり早苗のこと調べてた?」
「おお。調べまわってたぜ。まったくちんたらしてんのな、あいつのやり方」
昨日と今日。二日に渡って常磐は適当な理由をつけて、こそこそと出掛けて行っては、早苗のことを調べていた。東田に尾行されているとも知らず。
「あいつ、刑事に向いてないんじゃねぇか」
「人のこと言えないでしょ」
「まあな」
にやりと笑って東田は体を起こした。そして、西山の方へと少し身を乗り出す。
「知ってたか。あの早苗って女、実は婚約者がいるそうだ」
「ええ。知ってる。赤井って人でしょ」
「なんだ。つまらねぇ」
東田の顔が不貞腐れる。
「まだ離婚して三年だろ? 驚かないのかよ」
「別に。早苗はいい子だもの。それに、前の離婚は早苗のせいじゃない」
西山の声が棘を帯びる。
「岩下 慶一だろ」
「あら。よく覚えてたわね、あんたが男の名前なんて」
「常磐が調べてたからな」
「常磐が岩下を? なんで」
「知るか」
西山にも分からない。いったい常磐の目的は何なのだろう。
「それで分かったんだが、その岩下が行方不明らしい」
「行方不明?」
「今じゃすっかり落ちぶれて借金まみれ。家もなくてそこらじゅうを点々としてたらしい」
「どこにいるか分からないの」
「誰も捜索願いを出したりしてないみたいだしな」
西山は自然と険しくなる自分の顔を自覚する。
岩下を暴行の現行犯で逮捕したのは自分だ。相談を受けていた西山が、自宅へと様子を見に行った夜だ。岩下が建てた自慢の一戸建てのリビングから、一方的な岩下の怒声が聞えてきて、庭へと回った西山は岩下に殴られている早苗を見た。西山は窓を破り岩下を取り押さえた。
「ヤクザ絡みの金にも手を出してたみたいでな。いつ殺されてもおかしくないって話だったぜ。もしかしたら、今ごろ海に沈んでんじゃねぇか」
まさかそこまで落ちていたとは。
「ああ、でも金の当てがあるって吹いてた後に消えたらしいけどな」
「金の当て?」
まさか。それは早苗のことではないか。
西山の脳裏に早苗と、早苗の横に並んだあの自信に満ち溢れた赤井の姿が思い起こされる。
考え込んでいる西山を見た東田が肩をすくめた。
「そんなに気になるなら、星野 早苗、本人に訊けばいいだろ」
「……この前、会ったばっかり」
「なんだ。まあ、もう一度会ってみるんだな。どうせお前も今は暇なんだし」
「失礼ね。暇じゃないわよ。それに、早苗だって忙しいだろうし」
それを聞いて、東田が眉を上げた。
「あ? なんだよ。そっちは知らないのか」
「……何よ」
「星野 早苗は、ついこの前、仕事やめてるんだぜ」
西山は目を丸くした。そんなことは知らない。
「なんで」
「一身上の都合ってことになってるらしいが、普通に結婚退職だろ」
「なら、そう言えばいいじゃない」
「気まずいんだろ。離婚して三年だ」
確かにそうかもしれない。でも、早苗はこの前、結婚はまだ先と言っていた。それに、早苗はあの日、仕事は“休み”だと言っていたのだ。
小さな嘘だ。
それこそ気まずいだけだったのかもしれない。結婚のことも、あの日は言う気はなかったようだから。
でも、西山は早苗の性格を知っている。早苗は言いたくないことに口をつぐむことはあっても、けして嘘をつくことはなかった。
西山は早苗の事情も知っている。なぜ、西山に嘘をついたのだろう。
「……と、まあ、常磐が調べてたのはそんなとこだ。そうそう、風俗店の客引きが、調べに来た常磐をヤクザと思ったらしくて、ペラペラしゃべってたのは面白かったぜ。あいつの顔もたまには役に立つのな」
そう、そもそも、なぜ常磐は早苗を調べはじめたのか。
常磐が一人で勝手に動くときというのは……。そうだ。あの妙な夢が関わっているときだ。
「じゃあな。これで借りはチャラだな」
東田が紅茶を味わうでもなく、ガブリと飲み干すと立ち上がった。
「何言ってるの。全然足りないわよ」
「俺がお前にどんだけの貸しがあるって言うんだよ」
うんざりしたように東田は西山を見る。そして今度は忠告するように言った。
「いいか。お前は謹慎中。勝手な真似はすんじゃねぇぞ」
「……分かってる」
分かっているから、もどかしかった。