第六章・1
第六章
―1―
次の日、常磐は捜査書類を作り終えると席を立った。
「なんだ。もう帰るのか」
向かいの席で東田が、自分の担当事件の書類を面倒くさそうにめくりながら言う。刑事の仕事は意外と書類作成が多く、定時で帰宅なんてことはまずない。もう、とは言っても時計は九時になるというところ。
「ええ……ちょっと寄るところがありまして」
「なんだコレか」
小指を立てて見せる東田に、常磐はげんなりする。
「違います。さっさと自分の書類片付けたらどうですか。じゃ、俺、帰りますからね」
「おお。じゃあな。彼女に宜しく~」
「違いますってば」
ひらひらと手を振る東田を睨んでから、常磐は足早に課を出た。
◆◆◆◆◆◆
昼間活気に溢れる繁華街から、少し奥に入った所にある歓楽街。
近年では規制が厳しくなったせいか、それとも景気が悪いせいなのか、人通りは思っていたよりも少なく、どこか寂しさすら感じる。紫やピンクのネオンが怪しいそこで、常磐はある店に向かった。
目的の店は、本棚に押し込んだ本のようにひしめき合ったビルのテナントの一つ。窓には下品な謳い文句が、でかでかと紙にプリントアウトして貼ってある。あれでは、窓本来の役目は果たせないだろう。
そのビルの前で大きな看板を担ぎながら、客の呼び込みをしている男を見つけ、常磐は男に近づいていった。
「あの」
常磐が声を掛けると、客引きはそれまでやる気の無さそうだった顔に、ニタニタとした笑みを浮かべた。
「おっ! お兄さん。遊んで行く? うちはいい子揃ってるよ!」
常磐よりも若い、まだ二十代前半といった感じの客引きはそう言うと、常磐の腕を取った。
「い、いや、俺は……」
こういった勧誘やら客引きが常磐は大の苦手だ。しかし、自分は刑事。こんなことぐらいで尻込みしていてどうする。常磐は一つ咳払いをすると、客引きを睨むように見て、少し凄味を利かせた声で言った。
「ここに岩下 慶一っていう男がいると思うんだけど」
岩下 慶一は早苗の元夫。
早苗よりも年は三つ上。元々は自分で事業を起こすほどのやり手で、若いながら人望もある人間だった。そして皆に祝福され早苗と結婚した。
しかし、早苗と結婚して間もなく、岩下の起こした事業は経営難に陥り破産。岩下は仕事の失敗を早苗のせいにし、暴力を振るうようになった。それは周りの人間から見ると、まさに人が変わってしまったようだったという。
早苗との離婚が成立した後は、あちこちに借金をしながら歓楽街をふらふらしていたそうだ。そして、今は常磐の目の前にあるこの店で働いているらしい。ここまでが昨日、常磐が調べて分かったこと。
客引きは岩下の名前が出ると、ギョッと顔を強張らせた。
「え、お兄さん、そっちの人ですか。嫌だな。お、俺は何も知りませんよ。俺がこの店で働き始めたのも、つい最近ですし……」
どうやら睨みの効果があったようだ。客引きが急にしおらしくなった。
「俺は岩下のことが聞きたいんだよ」
「だから、俺は岩下さんのことはよく分からないんですって。それに、岩下さんは今、行方不明でして」
「行方不明? いつから」
「そうですね……一週間ちょっと前くらいかな。連絡が一切取れなくなっちゃいまして。俺も困ってるんですよ。岩下さんには、俺も金を貸してたんで。だからお兄さんの気持ちは分かるっていうか」
「俺の気持ち?」
いったい何のことだろう。首を傾げた常磐に、客引きも首を傾げる。
「え? お兄さん、そっちの人なんでしょ」
客引きが頬を指でなぞる。
どうやらヤクザ者の使いだと思われていたらしい。常磐はショックを受けた。
「違う! 俺は……」
「刑事だよっ」と声に出して大きく言いたかったが、こんなところで声を大に言うことじゃないだろう。常磐はチラと胸ポケットの手帳を客引きに見せた。
「え? あ、そっちですか! すいません、てっきり……」
客引きが常磐の顔を覗き見る。
悪かったな。チンピラ顔で。
「……岩下はそういう奴らからも借金をしてたのか」
「ええ。まあ、噂ですけど。なんせ、あちこちから金借りてたんで。たぶん、そっち系の金もあったんじゃないかなぁと。だから夜逃げでもしたんじゃないかって、みんな言ってますけどね。いつ殺されてもおかしくないって感じでしたし」
客引きは笑ったが、常磐には笑えない。
「金の当てはあるって言ってたんだけどなぁ」
「金の当て?」
「ええ。そういえば、その後ですね。連絡取れなくなっちゃったの」
「そう……有難う」
常磐は客引きに礼を言うと、歓楽街を後にした。
借金に溺れた岩下が行方不明。その岩下が、金の当てがあると言いながら行方を眩ませた。
金の当て。それはもしかして、早苗のことではないだろうか。
◆◆◆◆◆◆
常磐が去った後、看板を担ぎなおして振り向いた客引きは、そこにいつの間にか男が一人立っているのに気づいて驚いた。
「あ、いらっしゃい。遊んでいきますか」
ただならぬ雰囲気を漂わせる男に、おどおどとした調子で客引きが尋ねると、男は無精な顎鬚を撫でながら値踏みするように店を見る。
「ああ、そうしてぇところなんだけど、今はちょっと借りを清算してる最中でな。遊んでらんないわけよ。分かるか」
「……そ、そうなんですか」
「でよ、お前、さっき男と話してただろ。あいつが何を訊いてたか教えな」
男の言葉に客引きは声を潜めると、男に少しだけ身を寄せた。
「旦那、気をつけたほうがいいですよ。あの男、あれでも実は刑事らしいっすから」
「ほお」
すると、客引きは突然、男に胸倉を掴まれた。突然のことに目を白黒させる客引きに男、東田は言った。
「俺も実は刑事でな。遊んでる暇はねぇって言っただろ。いいからとっとと教えろ!」




