第一章・1
第一章
―1―
窓から差し込む柔らかで暖かな太陽の光に、常磐 要は大きな欠伸をした。
小さな個室の談話室。外の木々は黄緑色の初々しい葉をキラキラと輝かせている。
春だ。
まだ日が落ちると肌寒さはあるものの、日中はコートやジャケットがなくてもいいほどに暖かい。常磐も今は、いつも着ているミリタリージャケットを脱いで手に持っていた。
パイプ椅子に座って、常磐がぼんやりとしていると、ドアが開いて男が一人顔を出した。
常磐は緩んでいた気持ちを引き締めると、慌てて席を立ち、ドアを開けた人物に頭を下げる。入って来たのは、初老のずんぐりとした小柄な男だった。
「お忙しいところ、すみません」
「いや。まあ座って」
その男は立ち上がった常磐に座るように言うと、自分も常磐の前に腰を掛けた。
男の名前は牧本 慎之介といった。歳は五十と聞いていたが、牧本はそれよりも老けて見えた。額と眉間、頬に刻まれた深い皺。髪は白く、頭頂部もだいぶ薄くなっている。
まあ、常磐も人のことをどうこう言える容姿ではない。目つきの悪いチンピラのような顔は、以前つけた左目下の切り傷によって、更に悪人顔になった。
しかし、この顔に似合わず、常磐は刑事課の新米刑事なのだ。
「私の話など、今更、何の役にも立たないのではないかと思うんだが」
牧本は言った。
「それでも聞きたいんです。当時の担当刑事だったあなたに」
十五年前に起きた『朝日奈一家惨殺事件』。
大学講師だった朝日奈 陽介とその妻、長男が無残な方法で殺され、次男がマンションの六階から転落し、意識不明の重体となった残酷な事件。
牧本は当時、その事件の担当刑事だった男だ。
常磐は今、その事件の唯一の生き残りである、次男の朝日奈 鈴と深い関わりがある。
牧本は大きく息をついた。
「我々、事件直後の担当捜査員が初動捜査に問題があったとして、マスコミの批判の対象になっていたことは知っているね」
「はい。一応」
牧本たちが、被疑者として捕まえた男が、後に無実だったとして解放されたのは、事件が起こってから約一年後のことだった。
牧本は机の上に両手を組むと、少し身を乗り出して常磐をじっと見た。牧本の体は小柄だが、こうして見ると、がっしりとしていて、背広の上からでも鍛えた腕の太さを感じる。一見温和そうに見えた皺に囲まれた目も、鋭く強い光を奥に宿していた。
「当時の目撃情報、現場から走り去った車両。現場にあった証拠品。それらは奴に繋がっていた。私たちは奴を犯人だと信じて疑わなかったんだよ。職業も三流ゴシップ雑誌のカメラマン。覗きみたいなマネで飯を食っているような奴でね。だいたいあいつらは記事のネタのためなら、私たちの仕事にも平気で首を突っ込むような連中だ」
苦々しい口調だった。
「でも違っていた。事件は振り出しに戻ってしまった。そいつの周辺ばかりを洗っていた私たちの捜査は、すっかり行き場を失ってしまった。出来ることなら、嘘でもいい、そいつを犯人だということにしてしまいたいとさえ思った」
牧本のようなベテラン、頑固で真面目そうな刑事の口から、そんな言葉が出てくるとは思わなかった。
「そして進展がないまま二年が経ち、事件に対する先入観を取り払うため、私は捜査を外された。そして今はこうして、隣町の署に移動した。その後について話せることはない」
「……一つ聞いていいですか」
常磐は胸ポケットから畳んだ紙を取り出し、広げて机に置いた。
「朝日奈 鈴の死亡報道が流れたのは何故です」
事件後一ヶ月ほどで流された、唯一の生存者の死亡を伝える新聞記事。それを見て、牧本は目を細める。
「朝日奈 陽一郎、朝日奈 鈴の祖父の強い要望があってね」
思いもかけない人物の登場に、常磐は息を呑んだ。鈴の祖父は事件後ニ年で、祖母も今から五年前にすでに亡くなっている。
「あの事件はどこか妙だった。まだ捜査中の現場マンションに、人が入り込んだ形跡があったり、入院中の朝日奈 鈴の病室にも、誰かが侵入した形跡があった。馬鹿なマスコミの仕業かもしれなかったが、犯人が何か執着をもって、未だにうろついているのではないかと、朝日奈 鈴の祖父は疑心暗鬼になっていたのだよ」
牧本が顔を顰めた。眉間の皺が一層深くなる。
「無理もない。突然、自分の息子夫婦の家族があんな無惨な形で、誰かに命を奪われた後だ。唯一生き残った孫を、もう誰かに狙われたくない。ならば、すでに死んだ事にしてくれないか。陽一郎氏はそう言った」
「それを聞き入れたんですか」
「異例のマスコミ対策として、私たちは彼の要望を呑むことにした。実際、朝日奈 鈴はいつ亡くなっても、おかしくない状態ではあったんだがね」
しかし、鈴は死ななかった。
「それ以降は、おかしな現象も止まり、マスコミも静かになった。あの頃は他にもマスコミの好きそうな事件が続いてね。すぐに朝日奈一家事件は、テレビでも新聞のニュースでも取り扱われなくなっていった」
牧本は日差しの明るい窓の外を、眩しそうな顔で見る。
「人々の関心を離れた事件は、どんどん風化していく」
「そんな。風化なんて」
思わず呟いた常磐に、牧本は小さく口元に笑みを浮かべた。
「君はいくつだい」
「二十六ですが……」
「十五年前の一月十日、君は何をしていた」
十五年前というと常磐はまだ小学生。その一月十日。正月も明け、冬休みも終わり、三学期の授業が始まったばかりだ。……何をしていただろう。
「……覚えていません」
「だろう。いや、それが普通だ。この事件、犯人の罪は死刑に相当するだろう。時効はなくなった。それはいいことなのかもしれない。しかし、私たちにとっても、この終わりの見えない戦いは、余りにも厳しく重たい」
牧本は目を閉じ、ゆっくりと首を横に振る。
「君は若い。しかし、これは自ら進んで首を突っ込む事件じゃない」
そこへ、ドアをノックする音がして、若い男がドアから顔を覗かせた。
「すみません、牧さん。この前の傷害事件の害者が来てるんですが」
「ああ、ちょっと待っててもらってくれ」
若い男は頷くと、チラと常磐に目をやってドアを閉める。牧本が席を立つのを、常磐は止めることができなかった。
「すまないね。私も、一つだけの事件に、生涯を費やすことはできないんだ」
ドアを出るとき、牧本は常磐を振り返って訊いた。
「君は彼には会ったのか……朝日奈 鈴に」
「はい」
「そうか……彼が目覚めたと聞いたとき、私も彼に会いに行った。正直、ぞっとしたよ。確かにあれから、十三年の時が流れたはずなのに、あの日から彼の姿は変わっていなかった。あの日から彼の時間は止まってしまっていた。この事件は何も終わっていない。それをまざまざと、思い知らされた気がしたよ。彼を見ていると、十五年前に引きずり戻されるような気分になる」
牧本は視線を落とす。
「十五年だ。当時赤ん坊だった私の息子は、もう高校生になった。そんな息子より彼の姿は幼い。やりきれない気持ちになる。憎むべきは犯人だ。それでも自分の無力さに、罪悪感を感じずにはいられないのだよ」
呟くように言うと、牧本はドアを出て行った。