第五章・3
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学校から帰ってきた灯は、蜃気楼の扉に掛けられた札が『就寝中』なのを見て嬉しくなった。
鈴が仕事中でなければ、自分は鈴の傍にいられる。鈴が眠ってしまっていても、灯は一向に構わなかった。
鳴ったドアベルに、客のいないテーブルを拭いていた大酉が灯を見る。
「おかえり灯ちゃん。あ、今日は座敷に上がっちゃダメだからね」
座敷部屋に向かおうとした灯は、大酉に言われて足を止める。
「なんでよ。札は『就寝中』だったじゃない」
「お客様が来てるんだよ」
「客?」
灯が怪訝そうに眉を寄せる。
客ということは、あの馬鹿刑事ではないのか。それならそうと言うだろうし、あの刑事なら灯が鈴と一緒にいても問題はない筈だ。
「鈴さんの中学の時のご友人だそうで」
「鈴様の?」
中学というと、鈴が十五歳、ちょうど事件があった頃のことだ。いったい今更何をしに来たのだろう。
座敷部屋のほうを見た灯は、上がり口の下に揃えて脱いである靴が、女物のパンプスだということに気づいて、顔を曇らせた。
「邪魔しちゃダメだからね」
「分かってるわよ!」
注意するように言った大酉に言い返して、灯は座敷部屋が見えるカウンター席の椅子に座り、形のいい足を組む。
そのとき、座敷部屋から畳を打つような音と、女の取り乱したような声がしてきた。
「朝日奈君っ?! どうしたの、朝日奈君!」
灯は椅子から立ち上がると、大酉が止める間もなく座敷部屋へと走り、その戸を開いた。
◆◆◆◆◆◆
早苗は突然、勢いよく開かれた戸の音に、驚いて振り向いた。
そこには制服姿の少女が立っていて、恐い顔で自分を睨んでいた。少女は次に早苗の前に倒れている鈴へと視線を移した。
「あ、あの、突然倒れたの。さっきまで普通に話してたのに」
鈴を揺すろうと手を伸ばした早苗の前に、座敷部屋に上がってきた少女が体を滑り込ませる。
「触らないで」
鋭い声で少女が言って、早苗は反射的に手を引いた。綺麗な子だ。意思の強い瞳が早苗をじっと見つめている。
「灯ちゃん、失礼だよ。すみません、驚かれたでしょう。大丈夫です。鈴さんは眠っているだけなので」
鈴が大酉と呼んでいた店主が来て、早苗は少し安心した。
「ほら、灯ちゃんどいて。鈴さんをちゃんと寝かせないと」
大酉が部屋の端に立てかけられた衝立の奥から布団を出して敷くと、そこに慣れた様に鈴の体を横たえた。その鈴の顔を、灯と呼ばれた少女が心配そうに見る。
「眠っているだけ……なんですか」
「ええ。鈴さんは今、『眠り病』を患っていまして。時や場所に関係なく、突然眠りに落ちてしまうんです。しばらくすれば目を覚ましますが」
そんな病気だったなんて。
確かに早苗の記憶にある昔の鈴と比べると、今の鈴は顔色が悪く体も細くて、どこか病弱に見える。
「いつ目を覚ますか分かりませんので、どうぞお帰りください」
灯が丁寧だが不機嫌な口調で言って、とっとと帰れと言わんばかりのその様子に早苗は面食らう。
いったいこの子は何なのだろう。しかし、この様子は――。
「大酉さん」
「はい」
「すみませんが、お茶をいただけますか。あと、何かお茶菓子をお願いしてもいいでしょうか」
頼んだ早苗に、驚いたような顔をする大酉と灯。
「朝日奈君が起きるまで、待たせてもらいます」
早苗が言うと灯が紅潮させた頬を膨らませる。
「それでは、今日の日替わりセットをお持ちします。苺大福になりますが宜しいですか」
「あら、美味しそう」
「少々お待ちくださいね」
座敷部屋を出ようとした大酉に、今度は灯が言った。
「大酉、私にも同じの」
「ええ~……」
「いいから持ってきなさいよ。お金は後で払うから」
灯は鈴の傍に座って腕を組んだ。なんて分かりやすい子なんだろう。灯の様子が微笑ましくて、思わず口元を隠した早苗を、灯は睨む。
「何よ」
「いいえ、別に」
感情を表にさらけ出す灯は、その大人びた見た目よりも子供っぽく感じた。同時にそれを早苗は羨ましいと思った。
なんて若々しくて、怖い物知らずで、無謀なのだろう。自分にも同じような時期があったとは思えないほど、目の前の少女は魅力的だった。