第五章・2
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大酉は店の前を掃除していた。
客がいなくて暇だから――では、けしてない。
ビルの狭間にある蜃気楼は、昼間でも薄暗くどこか肌寒い。店の前が日に当たるのは、一日のうちほんの少しの間。鈴のいる座敷部屋の裏庭だけは、かろうじて春の日差しの恩恵を受けることができた。
コツコツと小さな足音がして、大酉は箒で掃いていた足元から顔を上げた。
アイボリー色のトレンチコートを着た女性が、緩やかにカールした髪を手で掻きあげながら、メモを手に歩いて来る。女性はキョロキョロしながら、一度店の前を通り過ぎ、戸惑ったように戻って来た。
「何かうちに御用ですか」
大酉が声を掛けると、女性はホッとしたように表情を緩めた。
「すみません。『かいやぐら』というお店は、ここで宜しいんでしょうか」
「ええ、『蜃気楼』はうちです。分からない方も多いんですよ」
大酉は笑って、店名の書かれたスタンドを指した。つられた様に女性も笑う。
「ああ、良かった。私、地図を見るのが苦手で」
「夢占が、お目当てで?」
「夢占?」
女性の反応に大酉が首を傾げる。このくらいの女性が一人で蜃気楼を探して訊ねてくるとなると、目的は夢占いがほとんどなのだが。
「あれ、夢占いに来たわけではない?」
「ええ……こちらに朝日奈 鈴さんがいらっしゃると思うのですが……」
女性の口から出た鈴の名前に、大酉は目を丸くした。
◆◆◆◆◆◆
「驚いた……」
ポカンと口を開けた鈴に早苗は笑った。
「あの、お通しして良かったでしょうか」
大酉が鈴の顔色を伺うように訊いた。今まで蜃気楼に、鈴個人の名前を出して会いに来る人間など、いなかったからだ。
「大丈夫。中学のときの同級生だ」
「中学のときの……それはそれは。どうぞ、ごゆっくり。今、お茶をお持ちしますね」
深々と頭を下げた大酉に、座敷へと上がった早苗はお辞儀を返す。
「なんだか、よく出来たお手伝いさんって感じの方ね」
鈴に向き直り早苗は言った。
「大酉はなんでも出来るよ。すごく助かる……何?」
客用の座布団を敷きながら、自分をじっと見る早苗の視線に鈴は気づいた。
「ううん。朝日奈君、着物も似合うんだなぁって。占い師なんてやってるのね」
「うわあ、あんまり見ないでほしい」
参ったというように、片手で顔を覆う鈴が可笑しい。
「俺がここにいるって、よく分かったね」
「あ、西山先輩に訊いて……迷惑だった?」
「ううん全然。この前はあんまり話せなかったし。それで、何か用?それとも――」
そこで一旦言葉を切った鈴が、早苗の顔を覗きこむ。
「俺に会いに?」
冗談めかして言った鈴に早苗は頬を膨らませた。
「もう、そうやって、すぐからかうんだから」
鈴が声を上げて笑った。
変わらない。
あの頃はこんな風に二人きりで話せる機会は少なかったから、クラスの皆と談笑している鈴を、遠くから見ていることしかできなかった。まるで日向に集まる猫のように、鈴の周りには人が多く、そこに割って入っていくことなど、当時の早苗にはとても出来なかった。
「星野とこうやって話すなんて、あんまりしたことなかったよな」
早苗の思いを感じ取ったかのように、鈴が言う。
「朝日奈君は人気あったから」
「ええ? 本当? 俺、全然もてなかったんだけど」
「……近藤さんって覚えてる?」
「もちろん。委員長だろ」
「近藤さんも、朝日奈君のこと好きだったのよ」
「嘘だぁ。俺、あの人にいっつも、ちび太扱いされてたし」
憮然とした鈴に、早苗はくすくすと、こみ上げる笑いを抑えきれずに肩を揺らした。
『ちび太』と言われた鈴が、近藤と言い合う様子も、早苗からしたら羨ましいやり取りだったのだが。
「それなら星野も男子に結構人気があったよ」
「私が? それこそ嘘よ。私なんて地味で、クラスじゃ、まったく目立たなかったから」
「本当だよ。うちのクラス、強い女子ばっかりだっただろ? 星野みたいに大人しくて優しそうな女子に人気集中。守ってあげたくなるタイプとか、男連中がいつも騒いでたよ」
笑って話していた鈴が、ふと真面目な顔で早苗を見る。
「でも、俺知ってるよ。星野がそんなに弱くないこと。俺と大田……覚えてる? 大田」
早苗が頷くと、鈴は話を続ける。
「俺と大田が喧嘩したとき、星野が間に入って止めてくれたことがあっただろ。凄いなぁって思った」
理由はなんだったか覚えていない。
大田の横暴な態度に、皆が困るのはいつものことだった。それに向かっていった鈴を大田が殴ったのだ。鈴が机をなぎ倒しながら床に体を打ちつける。
息を呑んだ。
周りは遠巻きに二人を呆然として見ている。
どうして誰も鈴を助けてくれないのか。
鈴は皆の代わりに大田に向かっていったのに。
どうして。
起き上がった鈴が、今度は大田に体ごと突っ込んでいった。
何度かの殴り合いの後、鈴より一回り以上体の大きな大田が、鈴を力任せに床にねじ伏せたときだ。早苗は気がつくと大田の体を突き飛ばしていた。もうやめてと叫んだ自分を、大田と鈴が呆気にとられたように見ていたのを覚えている。
「二人とも、ひどい顔だった」
保健室から帰ってきた大田と鈴の顔は、ガーゼと絆創膏だらけで、目は腫れ上がり、口の端には青痣。まるでお化けだった。
そして早苗にとって何より不可解だったのは、その大喧嘩の後、大田と鈴が仲良く話していたこと。意味が分からない。男の子というのは、なんて不思議なんだろうと思って見ていたものだ。
「大田はね、本当は星野のことが好きだったんだ」
微笑みながら言った鈴の言葉。
次から次へと出てくる思い出はどれも眩しくて、早苗はなんだか胸が苦しくなった。