第五章・1
第五章
―1―
星野 早苗、三十歳。
勤め先は小さな広告代理店。イベントのチラシやポスター、WEB広告を扱うそこで、営業アシスタントとして働いている。その勤め先から一時間以内の、駅から十分ほど歩くアパートが現在の住所となっていた。
一つ驚いたのは、早苗が三年前すでに一度結婚していて、その後、早くに離婚していることだった。
ざっと調べるとこの程度の情報が上がってきたが、会ったときの印象も含め、犯罪とは無縁に思える。
常磐は調べていたパソコンの画面を、デスクに頬杖をついて眺めた。
「なんだ、その女、また何かあったのか」
背後で声がして、常磐はギョッとして振り向いた。東田がいつの間にか後ろで自分のパソコンの画面を覗き込んでいた。殴られるのも嫌だが、静かに近寄られるのは気持ちが悪い。
まあ、そんなことはいい。今、東田は何と言ったのか。
「東田さん、この人を知っているんですか」
「星野 早苗だろ? 前に霞野署でちょっと世話してやったことがある」
東田は思い出すように顎の無精鬚を撫でながら、薄汚れた天井に視線をやる。
「うちでって……。何か犯罪でも?」
「とは言っても、被害者の方だ。その女、西山の知り合いだろ。亭主の暴力がひどくてな。西山が現行犯で逮捕した」
「家庭内暴力ですか」
「女の方は被害届けを出すのを躊躇ってたがな。西山が説得して、今は裁判所から接近禁止命令が出てるはずだ」
だから離婚したのか。意外な事実だ。しかも西山が担当とは。しかし、星野が被害者の方だということに少しホッとする。
「なかなか健気な女だったな。自分の方にも非があるんじゃないかとか。裁判をするんでも散々迷ってたけどよ。不幸を背負った影のある所が、また色っぽかったぜ」
この男は事件の被害者まで、いつもそういう目で見ているのか。呆れるのを通り越して感心する。でも確かに、早苗には見ていてどこか守りたくなるような、か弱さがあった。
「その、亭主の方の名前は」
「あぁ? そんなの覚えてるわけねぇだろ」
早苗のことは覚えていたくせに。
「その女のことなら、そんなもんで調べるより、西山に訊いた方が早いんじゃねえか」
「そ、そうですね。今度、訊いてみます。――あ、俺、ちょっと出てきますね。えっと、この前の恐喝事件の件で」
「ん? ああ。なあ、ついでに――」
東田が煙草を買ってくるように言おうとしたときには、常磐はすでに課を出て行った後だった。舌打ちした東田の目の前、常磐のデスクで電話が鳴った。
課内を見渡すが他の電話は鳴っていない。直通で掛けてきたらしい。それに他の人間は各人、自分の仕事に集中していて、電話に出る者はいない。
仕方なく東田は電話を取った。
「霞野署、刑事課」
ぶっきらぼうに電話に出る。
『何よ。東田じゃない。常磐は?』
この声は。
「……西山か」
『常磐そこに居ない? ちょっと私のデスクで探して欲しい物があるんだけど』
「ああ、丁度今出て行ったところだ。何だよ探し物って」
東田は常磐の隣、西山の席の椅子に座る。
『なんだ、そうなの。あ、いいわよ、あんたは私のデスクに触らないで』
まったく、相変わらず可愛げのねぇ。
東田は西山のデスクに置かれていた雑誌をめくった。行けもしないような女性サービス満点の、スパやリゾートが特集されているページに付箋が貼られていて、顔がにやける。
「そういや西山、お前、星野って女と知り合いだっただろ」
『星野? 早苗のこと?』
「そうそう。星野 早苗。常磐がその女のこと、こそこそ調べてたぜ」
『……常磐が? なんで』
西山の声が怪訝そうに曇る。
「知るか、そんなの」
『早苗のことなら私に訊けばいいじゃない』
「俺もそう言った。じゃあ、お前には訊けないようなことなんじゃねぇの」
軽い口調で言った東田だったが、電話の向こうの西山が黙ってしまう。
「おい?」
『……東田、常磐が早苗の何を調べてるのか、探ってくれない。常磐にはバレないように』
「あ?」
いったいどうなってるんだ。それに、
「お前が俺に借りを作るのかよ」
ニヤニヤしながら東田が訊くと、
『何言ってるのよ、あんたが私にしてる今までの借りを、少しは清算できるチャンスでしょ』
呆れたような声が返ってきた。
本当に口の減らねぇ女だ。
『頼むわ』
真剣な口調になった西山が言った。
どうやら何か気がかりなことがあるらしい。
「……分かった。あの馬鹿を探るぐらいワケねえ。報告してやるから、お前は大人しく待ってるんだな」
電話を切ると東田は、自分のデスクにある買い置きの煙草をポケットに突っ込み、常磐の後を追って課を出た。