第三章・4
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「早苗」
名前を呼ばれて、目まぐるしく流れていく景色をぼんやりと眺めていた早苗は、運転席の赤井に顔を向けた。
「どうしたんだ。やっぱり、どこか具合でも悪いのか」
「……どうもしないわ。大丈夫」
「ならいいけど。ずっと黙ってるじゃないか」
「昨日よく眠れなかったから、少し眠いの」
「なら、眠ってていいよ。着いたら起こしてあげるから」
本当はそんなに眠いわけではなかったのだが、赤井はよくしゃべる男で、赤井の話に相槌を打つ気分ではなかった早苗は、その方が都合がいいと瞼を閉じた。
「結婚のことを言ったの、怒ってる?」
眠っていていいと言ったのに、赤井は早苗に話しかける。仕方なく、早苗は一度閉じた瞼を開いた。
「怒ってないわ。それに、西山先輩はあのことも知ってるから」
「ああ、そうなのか」
「ええ」
信号が赤になり車が止まる。赤井の運転は少し乱暴で、停車のときには体が前に強く揺れる。
「気にすることは何もないよ、早苗。これからは僕が早苗を守ってあげるからね」
自信の満ち溢れた笑顔で言った赤井の強い言葉に、早苗は小さく微笑み再び瞼を閉じた。
◆◆◆◆◆◆
「やだ、本当だ。美味しい」
西山は菓子きりの黒文字で小さく切った桜餅を一口、口に運んで頬を押さえた。
和菓子の美味いこの店の名は蜃気楼。鈴はここで夢占い師として、いつも奥の座敷部屋にいる。いつもはカウンター席に座る常磐は、今日はソファ席に西山と向かい合って座ることにした。
相変わらず客は少ないようで、今、店内には常磐たちの他に客はいなかった。
「でしょう? 美味しいですよね」
先ほどはオレンジジュースしか飲まなかった常磐も、今は日替わりセットの抹茶と桜餅を前にしていた。蜃気楼の菓子は常磐の口によく合う……というと、まるで食通のようだが、とにかく好みの味なのだ。
薄い生地で餡を包んだ長命寺ではなく、もち米で包んだ道明寺の桜餅。色はほとんど白い桜色。弾力のある餅は口に入れると、粒がほどけ、しっとりとしたこし餡が現れる。塩漬けの桜葉の香りと合わさって、口の中に優しい甘さが広がっていく。
「鈴さんに後で伝えておきます」
蜃気楼の店主である、大酉 圭介が、カウンターの向こう側で、いつもの人の良さそうな顔で笑いながら言った。
「ええ、これ、鈴君が作ったの」
西山が座敷部屋の方を見て感嘆の声を上げる。
鈴は蜃気楼に常磐たちと到着したとたん、『眠り病』を発症してしまい、今は座敷部屋で眠っていた。
「ええ。私もお手伝いさせていただいてますし、鈴さんの具合が良くないときは私が作らせていただいてますけど」
「感心しちゃうわぁ」
西山はあっという間に桜餅を食べ終えた。つい先ほどショートケーキを食べたはずなのだが。鈴のいる蜃気楼が和風喫茶店と聞いて、付いてきたのだ。常磐は西山が酒好きなことは知っていたが、甘い物も好きだということは初めて知った。
「まさか、常磐君が鈴さんを送ってくるとは思わなかったから、ちょっと驚いたよ」
大酉がずり落ちてきた丸眼鏡を、ちょいと指先で上げる。
「はい。霧藤さんがまだ用事があるということで、俺が送らせていただきました」
なんだか、信用して任せてもらえた気がして嬉しかったのだが、鈴にはタクシーを呼んでくれれば一人で帰れるからいらないと、残念なことを言われた。
「またあの夢を見たのかな」
大酉の笑顔が少し陰るのを見て、申し訳なくなる。
「あの夢って、犯罪者と同じ夢を見るっていうあれ?」
西山も常磐を鋭い眼差しで見る。西山は前回の事件から、常磐の力、鈴の力についてある程度の理解を示してくれるようになった。それは常磐にとってはとても心強いことだった。そして、西山が気にしているのは『犯罪者』という部分だろう。
「はい。今回はまた少し違うんですけど……」
常磐は西山に今回の夢のことを話した。大酉にも聞えるように話したのだが、大酉は静かに茶碗を磨きながら、口を出すこともない。
「『死ななければならない』……か。ずいぶん追い詰められてるのね。『死にたい』じゃないの?」
西山に訊ねられて、同調していたときの感覚を思いだす。
「そうですね……。自分が楽になりたいとか、何かから逃げたいとかいうより、もっと何か必然性を感じました」
「よほど大きな罪を犯したのね、その女性は」
霧藤と鈴には説明し忘れた、今回の同調者が女性らしいことを、西山には話してみた。同じ女性として、何か感じることがあるかもしれないと思ったからだ。
「できればその女性を止めたいのね、常磐は」
「はい」
それは、その女性の望むことではないかもしれない。自分の死によって、すべてを終わらせたいと思っている女性の気持ちを知っている。それでも。
「見つかるといいわね」
自分を後押ししてくれる西山の言葉に、常磐は頷いた。