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序章

挿絵(By みてみん)


序章

 

 星野ほしの 早苗さなえは絶望に打ちひしがれていた。

 絶望というのは大袈裟かもしれない。

 しかし、中学に入学してからの三年間、今日この日まで何一つ問題を起こした事のなかった早苗にとって、それは全身の血の気が引くような出来事だったのだ。


 早苗の足下には、砕けた瀬戸物の壷の破片が散らばっていた。

 職員用の出入り口に飾られていたそれは、どれぐらいの価値があるのかなんて、早苗には到底分からなかったが、男子がふざけて、あの壷は一千万するなどと話していたことを思い出す。

 もちろん、そんなものが公立中学校の職員玄関などに置かれているはずはないのだが、今の早苗には、冷静にそんなことを考えられる余裕はなかった。


 どうしよう。

 どうしよう。


 息が苦しい。背中を冷たい汗が流れた。

 早苗はしゃがむと震える手で、壷の欠片を手に集め始めた。


「どうした、星野」


 突然、後ろから声をかけられて呼吸が止まる。おそるおそる首だけを後ろに向け見上げると、そこにはクラスメイトの男子が立っていた。

 腕と足首を捲り上げたジャージ姿で、片手にちりとりを持ち、もう片方の手でほうきを肩に担いでいる。


 どうしよう。


 早苗は手に集めた破片を隠すように抱えた。

 このまま、壷の欠片と一緒に消えてしまいたかった。

 おかしな早苗の様子に首を傾げ、その男子は上から早苗の足下を覗き込んだ。


「ああ、なんだ割っちゃったのか」


 ずいぶんと軽い口調で男子は言った。

 早苗は怯えた。

 見つかった。見られてしまった。これから自分はどうなるんだろう。


「そんなことより、なんで星野一人で掃除してんの? もう一人の当番誰だよ」

「え……大田君……」


 割れた壷のことを、そんなことと言い、見当たらないもう一人の掃除当番の方に、その男子は顔を顰めた。


「ああ、あいつか。まったく、なんであいつ、何度言っても分かんないんだろうな」


 男子はそう言ったが、体も大きく、喧嘩の強さを自慢にしている、ガキ大将のような存在の大田に、歯向かっていける人間を、早苗はこの男子の他に知らない。

 目の前の男子は体も小さく、到底、大田には敵わないはずなのに、少しも怖じ気づく事はない。

 そして、誰もが男子の味方をするのだ。

 もちろんそれは、男子の方が絶対に正しいからなのだが、人はときにずるくて残酷で、正しいと分かっていても、それが自分のためにならないと分かったとき、それから目を背けてしまうものだ。

 しかし、男子には不思議と、周りを味方につけてしまうような、人を惹き付ける何かがあった。

 それは腕力などよりも、はるかに大きく、強い力のように思えた。


「星野」


 名前を呼ばれて顔を上げると、男子が早苗の目の前にちりとりを差し出していた。


「それ、こっちよこしな」


 早苗が手に抱えている壷の破片のことだ。


「危ないし」


 何も考えられなくて、言われるままに早苗は持っていた破片をちりとりに置いた。

 男子は床に散っている細かい破片も、ちりとりの中にほうきで集めると、近くのゴミ箱に流すように入れた。

 元の形のままでは、到底入らなかったであろう小さなゴミ箱の中に、ガシャガシャと音をたてて壷は消える。


「こういうのは隠さないで、とっとと謝っちゃった方がいいんだよ。時間が経てば経つほど、言いだしにくくなるから」


 隠そうとしていたことを言い当てられて、恥ずかしくなる。


「そんな死にそうな顔するなよ」


 そんなひどい顔をしているだろうか。早苗は両手で頬を押さえた。

 すると、男子は笑った。そのカラッとした笑い声に、なんだか胸がスッと軽くなる。


「こんなの、たかが物が壊れただけなんだから。わざとじゃない失敗を、謝っても怒るような教師がいたら、言い返してやればいい」


 早苗には到底、そんなことはできそうになかったが、この男子ならおそらくそうするのだろう。


「俺も前から、こんなとこに見栄張って、でかい壷なんて置いて、危ないって思ってたんだ。良かったな星野、怪我しなくて」


 どんどん自分の罪を軽くしていく男子の言葉に、早苗は体中の緊張が少しずつ解けていくのを感じた。


「ほら、行こう」


 男子がまた箒を肩に担いで言った。


「え……一緒に行ってくれるの?」

「邪魔ならやめとくけど?」


 『行ってやるよ』ではなく、男子はそんな風に言った。もちろん早苗はぶんぶんと頭を横に振る。


「じゃあ、早く行こう」


 男子は笑いながら、早苗より先に職員室へと歩き出す。

 早苗はその男子が、クラスの女子に密かに人気なことを思い出した。そういうことには疎い早苗だが、今なら、それがなんでなのかよく分かる。

 さっき死にそうな顔と言われて押さえた頬が、今度は熱を持って熱くなるのを感じた。


 早苗は小走りに、前を行く男子の背中を追いかけた。


「待って、朝日奈君」



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