16
遠藤さんが話に一段落つけても、僕はまだ、人の形をした陰から目が離せなかった。
「それって、つまり・・・」
彼が僕の事情を知る訳はないのに、沈黙することで、何かを勘ぐられてしまう気がして、急いで返す言葉を口にした。
だが、どんな表情を作るべきなのかは、すぐには分からない。そうなんですねと言って、苦笑いを浮かべたが、頬はうまく動いてくれなかった。
「ALS患者の突然死があったらしいんだけど、遺族が不審に思って、警察に相談したらしい」
「不審って、何か気になることがあったんですか?」
僕の質問に、遠藤さんは沈黙した。
想定内の質問であるはずなのに、何も答えてはくれない。不思議に思って、遠藤さんの方を見ると、吸い寄せられるように、部屋に置かれた固定電話の方へと近付いていた。
「どうしたんですか?」
「いや、この部屋で亡くなった人、誰かに電話をかけようとしてたんじゃないか」
そう言って、部屋を見渡す。
僕も遠藤さんの視線の先をなぞるように辿る。確かに、なぎ倒された椅子や血の染みを辿ると、古いファックス付きの固定電話に行き着くようにも見えた。
遠藤さんは、黒い影を踏まないように足元に気を配りながら、電話機の方へと向かう。
「さっきの、ALS患者の不審死の話に戻るけど」
電話機のボタンを興味深そうに見つめながら、そう前置きして話を戻した。
「スマホの履歴は消去されてたけど、SNSにログインしたままのタブレットがベッドの下にあったんだよ」
ドクンと、胸の音が響く。
「何か残ってたんですか?」
記者として、あくまで仕事として、冷静に言ったつもりなのに、声が震えてしまった。動揺があっけないほど言葉に乗る。
声の揺らぎをさとられないように短い咳払いをして、急いで「タブレットの方には」と、意味なく付け足した。
遠藤さんも、僕の揺らぎは目の前の凄惨な光景のせいだろうと勘違いしてくれたのか、「ホント、酷いよな」と黒い陰を見ながら、同意して頷いて続けた。
「DMのやり取りが残ってて、そこに『今からお伺いします』とだけ、死ぬ一時間前に送られてたんだとさ。で、送り主のアカウントを辿ると、どうやら本物の医者だったらしい」
まだそうと決まった訳ではないのに、どうしても、妻と駅前で待ち合わせをしていた、あの男の姿が目に浮かぶ。
「日本の医者が勝手に安楽死の処置をしてたんだから、番組として安楽死を肯定してるって受け取られても面倒だからな」
勝手に。
これまで遠藤さんに対してそんな風に思うことはなかったのに、独善的な物の言い方が、癪に障った。
今この場で、自ら命を断つ方法を想像してしまった。
手首を切る、首を吊る、どのようなやり方でも、痛みと怖さに負けて、その先を深く考える前に、いつも引き返してしまう。
でも、動画の男性のように、コップ一杯の薬剤を飲み込むだけで、眠るように最期を迎えられるのなら。想像すると、ほんの一瞬だけ、死への恐怖が和らいでしまうことも、たしかに感じていた。
同じようにきっと、妻は今、あの医師の存在にすがっている。
一人で考え込んでいると、遠藤さんもまた、電話機を見つめながら、何かに思いを馳せているようにも見えた。
「誰にかけようとしてたんだろうな」
遠藤さんがぼそっと漏らした時、島本さんが戻ってきた。
大型のキャリーケースのようなものを、慣れた手つきで部屋に運び込んだ。先ほどの説明からすれば、脱臭機なのだろう。
「警察が調べたみたいですよ、亡くなる前に二件、電話をかけてたって」
島本さんは、少し息切れしかけた声で、電話付近に立つ遠藤さんに向かって言った。
「どこに電話してたんですか?」
遠藤さんも、思わぬところで答えを得たと、少し前のめりになって尋ねた。
「一件目は、お母さんに電話したみたいです」
「でも、母親は亡くなってますよね?」
「そうですね。でも、亡くなったあともスマホを解約してなくて、電話番号もそのままだったらしいんです」
遠藤さんの目が、ゆっくりと閉じていく。つい最近、母親を亡くした彼が、何を思ったのだろうか。遠藤さんは目を閉じたまま、島本さんや僕に対してではなく、部屋の誰かにに語りかけるように言った。
「自分も、母親が死んだあともずっと、電話もラインのアカウントも消せませんでした」
そう独りごちるように言ったあと、「声でもききたかったんだろうな」と、労わるような声で漏らした。
「二件目は?」
遠藤さんの代わりに聞いた。
「お姉さんに電話してたみたいです」
島本さんは、部屋の隅に敷いてあった、薄いマットレスを見ながら言った。
「ずっと前に結婚して家を出てるんですけど、痛いとか、ごめんとか、怖いとか。断片泣きながらいって、お願いだから話したいって」
マットレスの近くには、ペットボトルや雑誌などが、周りを囲うように置かれていた。二階にも部屋はあるだろうが、母親と長く過ごしたこの部屋を出たくなかったのかもしれない。会ったこともない相手なのに、なぜか確信のように、そう思ってしまった。
「最期に誰かと繋がっていたかったんですかね。でもお姉さんはすぐ」
島本さんは、脱臭機の操作をしながら、感情のない声で言った。
「電話を切っちゃったみたいです」
人型の染みの側には、コードレスの受話器が、転がっていた。




