1
僕が家に帰ったあとも、妻の投稿はまだ拡散され続けていた。
今朝、確認した時には、まだリツイートの数も10件程度だったが、時間が経つごとに表示数も爆発的に増え、今では引用リツイートも40件を超えていた。
仕事の合間に、いくつか引用している投稿を確認したが、「それは間違いです。生産性がなければ死ねという主張には、賛同できません」「あなたも、大切な人ができれば分かる」など、批判的なものが目立つ。
テーブルの端に妻、奈々美のスマートフォンが置いてあるが、さっきから静かなままだ。おそらく、僕が帰宅する前に、通知は切っているのだろう。
「仕事、大変だった?」
食卓に料理を並べながら、奈々美が軽やかな口調で言った。
歌うように弾む、いつもと変わらないその声を聞いて、少し安心した。
僕がSNSアカウントを知っていることを彼女はまだ知らない。そして、僕が今日どこで何をしていたのかも、妻にはバレてはいないはずだ。
だが、安堵する気持ちと矛盾するように、嫉妬なのか、寂しさなのか分からないような、胸の痛みが疼く。
SNSの反応を、何も気にしていないはずはないのに、僕の前では取り繕って、陰りひとつ見せない。孤独に戦う時にさえ、夫として、頼られる存在になれなかった、それが悲しかった。
「ぜんぜん、忙しくはなかったんだけど」
ゆっくりと前置きしながら、事前に考えていた嘘を頭の中で整理する。
「この前取材した大学の広報さんに会ってて」
ちょうど、冷蔵庫から水を取り出そうとしていたところだったので助かった。顔を合わせていたなら、上手く誤魔化せる自信はなかった。
全てが嘘ではない。
実際に二日前に行った仕事内容だ。
だが、今日どこで何をしていたかは、絶対に妻に知られる訳にはいかなかった。
先に椅子に座った僕の背中に、奈々美が唐突に顔を埋めてきた。
「どうした?」
椅子が軋む音がわずかに響いて、背中に温かな重みが寄りかかった。
「別になんとなく」
くぐもった声で言って、背中に向かって「今日も、おつかれさま」と続けた。
彼女にとって、苦しい1日であったはずなのに、いつものように、僕を労る言葉をかける。
拡散された投稿には、妻の過去のタイムラインを遡り、「そんなに死にたいなら、お前は誰にも迷惑をかけずに死ねよ」と、時間が経つごとに、攻撃的な返信も増えていた。
妻が、この文章を読んでいると思うと、仕事中も、心配でたまらなかった。
それらの投稿を前に、妻は上から順番に、なぞるように、「おっしゃる通りです。ご気分を害してしまう投稿をしてしまい、申し訳ありませんでした」と、丁寧に返信を返していた。
真面目すぎて、いつも損ばかりしている。自分が我慢すれば全て解決するなら、笑って見せながら、痛みを一人で引き受けてしまう。そんな妻の性格を知っているから、律儀過ぎる返信を読んでいると、苦しくなった。
風呂上がりで湿った毛先が、僕の首に触れる。シャンプーの甘い香りが、鼻先に漂った。
その瞬間、どうしようもないほど、胸が苦しくなった。いつかは分からない。だが、僕は近い未来、確実にこの人を失ってしまう。それをどうやっても変えられないという現実を前に、焦燥と虚しさが波として押し寄せる。
「これ、この前もメニューにあったやつけど」
奈々美は食材宅配サービスの献立表を見ながら、リズムをつけて歌うように一つ一つメニューを紹介した。
オーブンから取り出したばかりの魚からは、パチパチと油が音を出して染み出していた。
病気の事があって以降、外に買い物に出られない日が続いたので、日々の食材は全て宅配食材に頼っていた。
今は料理はしなくてもいいと、何度も伝えたが、妻は頑なに譲らない。
僕は心配して何度も声をかけたが、妻は「それくらい大丈夫だって」と軽く受け流すだけだった。
だが、いつも笑っていた妻が、一度だけ真剣な顔になって、「何もしなくていいって言われるのが、一番きつい」とこぼし、それ以降、僕もこれまでの通りの日常を受け入れている。
妻は、国内で安楽死の処置を行い、起訴された医師の裁判についてSNSに投稿していた。
『私は、先生の勇気ある行動を支持します』
ニュース記事を引用し、そう投稿した。
妻の過去のタイムラインの大半は、「早く死にたい」というもので埋め尽くされている。
フォロワー数も、さほど多くはない。ほとんどの投稿に対して、「いいね」を意味するハートマークも、一件しか表示されていない。
今回の投稿も、普段なら炎上どころか、誰にも見向きもされない投稿だろう。だが偶然、障害者を支援する福祉団体の代表の目に止まり、「優生思想に繋がる」という非難がきっかけで、多くの人の目に入ってしまった。
仕事のメールを返信するため、一人で書斎に入ると、PC画面の左上に、流れ込むように、スッと通知が入った。
満開の桜の写真をアイコンにしたアカウント。それを目にした瞬間、思わず息が止まってしまった。
妻のアカウントからのDMだ。
何も考えられず、ただ一呼吸置きたくて、飲みかけのまま昨日から放置していたマグカップに手を伸ばしていた。
マグカップの冷たさで、我に帰る。
冷えきったコーヒーを諦めて、妻が近くにいないか、念の為、背後を振り返った。
息を止めて、ドア越しに気配を探る。
リビングからは、誰かが言い争うような、激しい声が盛れ聞こえてきた。妻が楽しみに更新を待っている、海外ドラマを見ているのだろう。大丈夫だと、指差しするように確かめたあと、画面を開いた。
『メッセージをいただき、嬉しかったです』
昼休憩の時に僕が書き込んでいた返信について、お礼を述べるメールだった。
妻の姿が浮かぶ。
2ヶ月前に、妻のアカウントを発見してから、僕も匿名でアカウントを作り、彼女をフォローしていた。
妻と同じ病気で余命宣告を受け、安楽死を望む一人として、嘘のプロフィールを作った。
それが夫として、記者として、人間として、間違ったことだとは、自分でも分かっていた。だがあの時の僕は、とにかく妻のことを知りたかった。
何度か、お互いの投稿に対して「いいね」を送り合う関係になったあと、相互にフォローし合い、今ではこうしてDMが送られてくることも増えた。
そして昼には、彼女の投稿に対して、「僕は何があっても、あなたを応援しています」と、DMを送っていた。
もう一通、妻からのDMが通知画面に表示される。
『いつも「いいね」ありがとうございます。急なご連絡になりますが』
DMは一旦、そこで途切れていた。
死にたいという妻の気持ちを応援するために、「いいね」を送っていた訳ではない。ただ、悲しい独り言ではなく、誰かが気持ちを受け止めているのだと、少しでも感じてほしかった。
何か返信を送ろうと思ったが、仕事のメールが一件、届いていることに気付いた。
『明日、事前取材が可能とのことです』
長く一緒に仕事をしている、ディレクターからのメールだった。
妻が近くにいないか、ドアの方を振り返ってもう一度確認したあと、ゆっくりとメール画面をスクロールした。
『母親本人からメールで取材の依頼があったんですが、できれば3ヶ月以内には死にたいと、電話では話していました』
そして、『どこまでカメラを回せるかは分かりませんが』と、珍しく弱気な書き方で締めくくっていた。
画面を見つめ、自分でも無意識のうちにため息が漏れていた。
メール画面を見ながら、明日の工程をしばらく考えていたが、リビングから聞こえていたテレビの音が消えていることに気付いた。
静まり帰って、足音すら聞こえない。
息を止めて気配を探る。
ピコンと、PC画面に通知が入る。
妻からのDMだ。
『安楽死を受けることに決めました』
リビングの方から、床が軋む音が、わずかに届いた。




