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靖子のいる家

掲載日:2026/06/05

靖子のいる家

ジンバブエ内田

                

 内藤靖子、一九六〇年(昭和三五年)一月十三日生。

 高校二年になりたての春、父の書斎で盗み見た履歴書にはぎこちない笑顔が貼り付けられていた。

「十五歳か。この子私の一個下なんだ。」

______________________________________________

 一九七五年(昭和四九年)三月の中旬、春は名ばかりで谷奥の村はまだ一面真っ白に凍っていた。

靖子はつい先週、町の高校に合格した。しかし、靖子の父は進学に乗り気ではなかった。

「学校なんか行っても行かんでもだんねから、家に金入れろ。」

 この日、靖子は父に連れられ、麓の村の若和泉家という金持ちの家を訪ねた。勝手に住み込みの仕事に紹介されてしまったのだ。

 村一番だという屋敷は殿様の城を思わせる石垣に囲まれ、玄関にはでかでかとした家紋が刻まれている。

着なれない制服姿の靖子は足を止め、立派な茅葺きの屋根を見上げる。体がそわそわするのを感じた。

「なにしとんやのくてえの! はよこいや! 」

「うん……」

 怒号に駆られ、屋敷へと通されるワイシャツ姿の父を追った。


 ガラス張りの障子に飾られた庭園を横目に縁側を歩く。典型的な金持ちの家。靖子は見せびらかすような情景に素直に見とれていた。

 虎の絵が描かれた一際目立つ襖の前に立ち止まる。虎の目がなんだかつぶらに見えてきた。

 応接室には大きな漆塗りの机が鎮座している。奥に立てられた金の屏風の前に初老の男性が座っている。

 初老の男性、屋敷の主人は穏やかな顔で二人を迎えた。

「遠い所からよく来ましたね。さあ、どうぞ座って。」

 靖子はうやうやしく伏し目がちに座り込む。

 さっそく面接が始まる。ただ、雇うのはもう決まっているようで、色々と事務的な確認をされるだけだった。

 主人から色々聞かれている間、靖子は奥の屏風から視線を感じた。

 屏風の陰から、靖子と同い年くらいの少女がのぞいていた。制服姿。靖子が通う予定の高校の物だ。

 育ちの良さそうな微笑み、靖子を優しく見守るような目。

 一方でその瞳は執念強くこちらを見据えている。今から何を言うのか見透かされているようだった。

 靖子が少女と目を合わせたその時、主人が屏風裏の少女に気付いた。

「こら!楓!何をしてんだ!今すぐ失せなさい!」

 主人の怒鳴り声が響くと、少女は急にひどくおびえた、ひきつった顔になり、部屋を飛び出していった。

「ごめんなさいね、うちの娘が。」

 主人は元の通りにやわらかく微笑む。

 就職の話がまとまりかけた所で、靖子は突然、

「あの、どうか住み込みで働かせてくれないでしょうか?実家からじゃ高校に通いにくくて……」

と頭を下げた。

 その瞬間、靖子の頭に父のげんこつと怒号が降ってきた。

「ごらぁ! 何勝手に口開いてるんや⁉」

 主人は会いも変わらず能面のような微笑み顔でとりなす。

「まあまあ、そんなにカッとなさらずに……。それじゃあ靖子ちゃん、とりあえず来週からうちに来てくれるかな?家事の手伝いをしてほしい。部屋はあるから、住み込みでもいいよ。」

 靖子は何かの書類に名前を書かされると顔を真っ赤にした父親に連れられて部屋を後にする。

 屋敷の外に出る。日はもう落ちかかっていて、辺りはほの暗く、屋敷の入り口が化け物の大口のように見えてくる。靖子はその口の中から何かが手を振っているのを見た。

 楓が夕闇に消えゆく親子を見送っていた。

 腕を握り潰されそうな靖子は遠ざかっていく影がいつまでも眩しかった。


 一週間後、さっそく靖子は若和泉家で働き始めた。玄関先の広間は薄暗くてしんとしている。靖子は入ったとたん肩の力が抜けるのを感じた。

 まず家中の掃除を頼まれた。先週訪れた応接間は清潔に保たれていたが、居間や座敷には無数の埃が舞い、畳には抜け落ちた髪の毛や消しかす、食べ物のカスがびっしりと付いていた。

 屋敷は靖子の家よりずっと広く、時間に追われながら廊下をモップで掃き、居間の畳を布巾でさすっていく。

 座敷の仏壇さえ埃を被っている。靖子は漆塗りの経典入れをなぞりため息を漏らした。

 二階の廊下はさらに汚く、埃や髪の毛が絨毯のように床を覆っていた。

 ある部屋の扉を開けると、長い間使われていないのかカビの臭いがもわっと襲ってくる。タンス、机、ベッド。あらゆる物が埃を被っている。長い間使われていないようだ。

 床を見ると、一本、長い髪の毛が落ちていた。場違いにつややかだ。どうも最近抜け落ちた物らしい。

 靖子がつまみ上げてまじまじと見つめていると、ガチャっと音がして、背後に人の気配を感じた。

 おそるおそる振り返るとそこにはこの前の少女、楓が微笑んで立っていた。眼差しがなんだか温かかった。

「あら、掃除してたの?ごめんなさい、邪魔して。」

「いえいえ……お気になさらないでください、お嬢様。」

「あははっ! お嬢様だなんて、気を使わなくていいよ。名前で、楓って呼んで。」

「あっ、ご、ごめんなさい。」

「ここね、お母さんの部屋だったの。」

「お母様、ですか?」

「うん、私が小学生の頃に死んじゃったんだけどね。」

「そうですか……」

「この部屋も去年まではおばあちゃんが掃除してくれてたんだけどね。今じゃ私が来るたびに埃まみれになってくの。」

「大事な部屋なんですね、頑張って掃除します。」

「うん! 家事やってくれる人が見つかって助かるよ。あ、勉強してるから私の部屋は掃除しなくていいよ。」

 そう言って楓は向かいの部屋に戻った。

 

 掃除が終わり、靖子は晩飯の支度を始めた。屋敷のキッチンは靖子の実家の半分ほどの広さ。炊飯器も冷蔵庫も最新だったが、シンクには水垢が目立ち、コンロには焦げた油に絡まったほこりがこびりついていた。

 台所を一通り綺麗にした靖子はとりあえずしょうが焼きと味噌汁を作ってみた。

 最新の設備、宅配で買っている上質な食材で作った食事は実家で毎日食べていた煮物よりもずっと美味しい。

 靖子には金持ちの好みが分かるはずもない。楓が肉をひとつまみ口に入れる瞬間。靖子は心臓が止まりそうだった。

「美味しい! お母さんが作ってくれたみたい。また作ってね。」

 家族からもかけられたことの無い、称賛の声。主人も靖子の料理を褒めてくれた。

「去年までいた召し使いのばあさんが死んでから家事をする者がいなくてな。君が来てくれて助かるよ。楓のお守りも任せていいかな。」

「子供扱いしないでよ! 」

 他所の家の食卓が自分の実家よりも暖かいことを靖子は初めて知った。

「ところで……」

 主人が声色を変える。

「2月の模試、結果はどうだったんだ?」

「模試……河合塾のかな……」

「春休み前には返ってくるだろ。まだ見せてないよな?」

「あはは……ごめんなさい、出すの忘れてて……」

 楓は模試の結果を探しに行くと言い、席を立つ。すると、主人も後を追って階段を登っていった。

 しばらくすると、「おい!」と二階から怒声が響いてきた。

 バチンっ!ドンっ!ガタっ!バシンっ!ガチャ。

「二位で良いわけないだろ!あんな田舎の中途半端な高校で……自惚れるなあほんだら!京大に行けなかったらすぐに嫁に行ってもらうからな。遊びたいならもっと勉強しろ!」

 物音のあと、主人は一人で降りてきて部屋へと戻っていった。

 数分後、楓はおどおどしながら降りてきた。

「……お父さん、もう行った?」

 目元が赤い。

「お風呂入ってくるね……」

 つい先程見せた曇りの無い無邪気な微笑みは怯えと切なさの混じった虚ろな笑顔に変わっていた。

 

 その後、仕事を終えた靖子は一階の女中部屋で眠ろうとしていた。

 目をつぶる。瞼の裏に写る楓の笑顔がとても脆く思えて仕方なかった。


 四月になり、靖子は高校に通い出した。屋敷から町の高校へは徒歩一五分ほどだ。

 靖子は朝五時に起きると、朝食の支度を済ませ、主人に工面してもらった新品の制服に袖を通した。

 八時。靖子は自分が緊張しているのか期待しているのか分からないまま、一人で屋敷を出た。

 村から町までは田んぼ道が続いている。人はいない。

 前から吹き付ける風はまだ寒く、吹き流された桜の花びらが頬をかすった。

しばらく歩き、橋を渡ると途端に町の喧騒に飲まれる。住宅街を抜けていくと、校門はすぐ目の前だった。

 

 入学式を終え、教室に戻る。この日は昼に下校だった。

 クラスは三組だった。靖子はすぐ後ろに背の高い子がぽつんと座っているのを見つけた。

「み、見延さんっていうの?」

 最初強張っていた顔も話していくうちに次第に柔らかになる。長身に似合わず整った顔立ち。何もない空っぽな目。街の子らしくない素朴な人物だった。

「靖子っていうんやね。よろしく! 」

 やがてチャイムがなり、教室が静まる。後ろの幸子がやけに頼もしく思えた。


 幸子とは帰る方向が別々だ。

 一人で帰ろうと玄関を出たその時、後ろから聞き馴染みのある声が聞こえた。

「あ! 待って、靖子ちゃん! 」

「え?お嬢様……楓さん⁉」

「なんで先に学校行ったの?起こしてよ! 新学期初日から遅刻しちゃったよ! お父さんにも怒られちゃったよ!」

「え!?そんな……も、申し訳ありません……もう出たのかと思って……これからは気をつけます……」

「これからは二人で家出るんだよ。ほらっ、帰ろ。」

「はいっ。楓さん……」

 楓は靖子の手を引いて正門を抜ける。ぎゅっと握られる手。人目に晒され、無理やり連れられていく自分に清々してしまう。

 村の方へ帰っていくのは二人だけだった。


 ある日の帰り、田んぼに植え付けられた苗の隙間に二人の姿が映る。

 楓はニヤニヤしながら鞄から紙を取り出した。

「今日ね、五月の進研模試が帰ってきたんだ。見て! 京都大学B判定だった! 」

でかでかとしたBの字に靖子は目を見開く。

「京都大学⁉学年1位だ……偏差値も70なんて……すごいです……」

「えへへっ! すごいでしょ! これでお父さんに怒られなくて済むよ。」

「楓さん、家ではいつも部屋で勉強してますもんね。」

「うん。お父さんが京大に行きなさいってうるさいから。靖子ちゃんは模試どうだった?」

「えっと……」

 靖子は廊下に貼り出された名簿を思い出す。

『内藤靖子 国語151点 数学180点 英語173点 順位12位/181人』

「12位か。なんだ、靖子ちゃんも勉強得意なんだね! 」

「そんな……私よりも勉強できる子たくさんいます。それに、私みたいな貧乏人が勉強できても仕方ないですよ。仕事の方が大事です。」

「靖子ちゃん、勉強嫌い?」

「嫌いかと言われると……」

「ならさ、一緒に勉強しようよ。」

「え……楓さんと勉強?」

「うん! お父さんに言って仕事減らしてもらうからさ。お願い! それとも、私と勉強いや?」

「そんなこと無いです! 嬉しいです! でも、本当にいいんですか?そんな給料泥棒みたいな……」

「そんなことない! 靖子ちゃんと一緒なら頑張れそうなの! 一緒に京都大学行こうよ! 」

「京都大学⁉」

「うん、靖子ちゃんなら行けるよ! それに、こんな田舎嫌でしょ? 二人で一緒に京都みたいなとかで暮らせたらなって。 」

「楓さんと……一緒に暮らす……」

 それから、二人の勉強会が始まった。楓の部屋。百科事典や参考書がびっしり詰まった本棚に見下ろされ、二人は緑のじゅうたんの上の丸机で向き合う。

 女子の部屋にありそうな漫画本や流行りのかわいいぬいぐるみ、ポスターなどが一切無い。全てが質素な部屋だった。

 楓はデスクライトを自分の顔に近づける。なんだか取り調べのようだ。いくつか参考書を取り出して見せびらかすように机に並べる。

「勉強の進め方、教えてあげるね!」

 頼まれてもいないのに、楓は靖子に勉強法を語り出す。

「学校で配られた数学の分厚いやつあるでしょ?青チャート! これ三周したら大体の問題は解けるよ! 」

「あと英語! 単語帳は学校で配られたのでいいけど、長文の問題集はこっちのレベル別問題集じゃなきゃだめ! 」

「あとこれ! 私が去年使ってた化学の演習ノートだよ。二年に上がるまでに三周はするんだよ! 」

 靖子の前に参考書が積み上がっていく。

「うわ……こ、こんなにやるんですか?」

「うん。一年だとこのくらいかな。今日は青チャート解いちゃおうか。とりあえず夕方までに一二問解こうね。」

「頑張ります……! 」

 一時間後、靖子の鉛筆の音だけが鳴り響く。楓はノートと参考書を代わりばんこに凝視している。

「楓さん、私そろそろ夕飯の支度を……」

「あ、もうそんな時間か。問題、どこまでできた?」

 靖子の青チャートを覗き込む。

「あれ、四章の章末問題やってるの?飛ばしたの?」

「いえ、一章の例題からやりました。」

「えー⁉この二時間で四章まで終わらせたってこと⁉青チャート開いたこと無かったんだよね?」

「はい。章末問題は合ってるか分かりませんけど……」

 靖子の手元の藁半紙には数式や図形がびっしりと書き込まれている。

「ちょっと、待って。私解答持ってるから。」

 楓が高校では持ち帰り禁止の解答を本棚から取り出す。 

 すると、靖子はものの数分で数十問の問題の答え合わせを済ませていった。

 楓は唖然としてそれを見ている。

「楓さんはどうでしたか?」

 靖子は楓のノートを見る。微分積分の問題を数問解いたようだ。

「この問題、全然答えと違うんだけど。靖子ちゃん、分かるかな?」

「……この点の接線は関係無いです。解くのに必要なのは点Aと点Bの接線なので。」

 楓は一瞬見ただけで解法を導く靖子を呆然と見つめた。

「あ……すみません。偉そうに高説垂れてしまって……」

「気にしないで。靖子ちゃん、すごいよ!私より頭いいじゃん。」

「そんなこと無いですよ……そうだ。夕飯、何食べたいですか?」

「お魚! 頭良くなるでしょ?」

 

 夕食、食卓には秋刀魚の塩焼きが並んでいた。

「楓、1位だからってうかれるなよ?所詮進研模試だからな?」

「うん、ごめんなさい……お父さん。」

「靖子ちゃん、学年12位だったんだって?意外と頭がいいんだな。楓の勉強もどうか見てやってくれないか。京都大学に行くのなら君の学費も負担してやるから。その方が楓も頑張れるだろう?」

「うん……!」

 靖子と楓の目が合う。靖子は夜にも楓と勉強する約束をしていた。楽しみだった。楓のために頑張るのが嬉しかった。

 

 二月、単語帳はページというページが折れ、しわしわになり、青チャートは角という角が潰れていた。

 ここ数ヶ月、学校では休み時間ずっと勉強し、授業中も隠れて勉強していた。屋敷では寝る時間になるまで楓の部屋で共に勉強していた。

 この日、廊下には冬休み前の全統模試の結果が貼り出されていた。

 幸子の大声が響く。

「靖子2位! 偏差値70や! 成績越されちゃった。」

 靖子は内心驚きつつ、満足げにほくそ笑む。

「どう?すごいでしょ。」

 幸子は自分のことのように嬉しそうだ。

「うん、すごい! 頑張ったんやね。」

 幸子は靖子を素直に褒めちぎった。

「幸子ちゃんは大丈夫だった? 」

 幸子は123位、偏差値49という結果にもかかわらずへらへらしている。

「幸子ちゃん、怒られない? この前も補習だったよね。分からない所あったら教えようか?」

「いいのいいの。 私推薦で行こうと思ってるからなー。」

 靖子は幸子とはそもそも同じ土俵にいないことを思い知った。


 その日の帰り、いつになく無邪気な靖子は模試の結果を楓に見せつけた。

「楓さんのおかげです! 」

「えーっ⁉すごい、すごいよ! あんだけ勉強したものね! あの努力が報われたんだね! 」

 楓は泣きそうな、満面の笑みで楓の両手を掴んだ。

「京都大学、A判定でした! これで、楓さんと同じ大学に行けますよ! 」

「へへへ……どうかな……」

 楓は一月の全統模試の紙を取り出す。

「京都大学、C判定だったの……」

 緑色の「C」の文字に靖子の顔が曇る。

 靖子は昨日の夜も楓の部屋から怒号が聞こえたの思い出した。

「え……? なんで……私が勉強に付き合わせたから……」

「いや、そんなことないよ! 私ね、ずっと勉強のやる気が出なくて……靖子ちゃんがいたから何とか机に向かえてたの。それでも勉強時間に集中できなくて……」

「……」

「お父さんがね、女は本来大学に行くべきじゃないんだって。京大に受からなかったら大学にやらないって。このままじゃ高卒で結婚だね。」

 それは靖子にとっても受け入れられないことだ。

「結婚だなんて……まだ、一年ありますよ。また二人で勉強しましょう! 私でも少しは役に立てますから。」

 靖子は楓の手をそっと握った。楓の指。思ったよりも肉が少なく、硬い。でも傷一つ無い真っ白な手だった。

 幼い頃から鎌をにぎりしめ、冷水にさらされてきた靖子の手。赤く痩せ、かさかさした手のしわから汗が滲み出るのを感じた。

 目を合わせた楓の顔は再び無邪気に笑っていた。

「すごいね、靖子ちゃんは。私がどれだけ勉強しても追い付けないな。」


 春、二年生になった靖子は楓と同じ文系を選んだ。

 学校から帰った靖子は夕飯の支度を済ませると、楓の部屋に向かう。

「ご飯お持ちしましたよー。」

 机に向き合った楓はカセットテープを止めて振り向く。英語のリスニングをしていたようだ。

「うん……今行くね。あ、数学の問題なんだけどさ、過去問で分からないのがあって……」

「あ、この問題は青チャートの例題六四と同じで……あ、旦那様がお待ちになっているので続きは下で……」

「教えてよ……! 」

「えっ?」

「そんなのいいから教えてよ! あなたの方が頭良いんだから! ……」

「は、はい……この問題は……」

 数分経ち、主人が「早く飯にするぞ! 」と呼ぶ。

「もういいよ。……ありがとう。」

「……行きましょうか。」

 怒鳴った楓。優しい目が苛立ちに歪んでいた。靖子が初めて見る顔だった。


 夏休みに入ると、楓はますます受験に飲まれていった。

 朝から晩まで部屋にこもっている。

 靖子も負けじと仕事の空き時間、睡眠時間を勉強に費やしていた。

 楓は昼間に突然、部屋から出てきて仕事中の靖子を「外に行こう! 」と引っ張り出して庭を歩き回った。

 無邪気に蝶々を追いかける楓を眠そうな目で見つめる靖子は昨日の夜中、楓の部屋から怒声と床を叩きつける音がしたのを思い出した。

 楓はまた突然、「勉強しなきゃ……! 」と二階に走っていった。

 楓の気が触れている。靖子が追いかけると、楓は母親の部屋で一人佇んでいた。窓の外を見つめるうつろな目が靖子の不安をあおる。

 少しして主人の車が見えると楓は怯えきった顔で部屋に戻っていった。


 夏休みが終わり、九月。夏はまだ終わらず、アスファルトの歩道は鉄板のように熱い。

二人はいつもの帰り道を早足で歩いていた。

「早く、帰らなきゃね……。勉強しなきゃ……。」

「楓さん、そんなに急がなくても……」

「うるさいなぁ! 一秒でも無駄にできないよ! 」

 真っ青な顔の楓は靖子が差し向けていた日傘を押し返す。

「顔色、悪いですよ?」

「ふふっ……靖子ちゃんも真っ赤なくせに……」

 ふらつきがちだった楓はついに歩みを止めてしまった。

 靖子はぐったりとした楓の肩を担ぎ、片手に持った傘で日を避けながら屋敷まで急いだ。

 屋敷に着くころには靖子にも頭痛、吐き気が襲った。体が動く度に響く鈍い後頭部の痛みに耐えながら、靖子は冷蔵庫から麦茶を持ってきて楓に飲ませた。

 楓は息を吹き返したように目を開けた。

「ありがとう……靖子ちゃんは強いね。」

 二人は暗い玄関でしばらく横になっていた。

「無理しないでくださいね。お願いだから。」

「京大の模試、E判定だったんだ……」

「まだ暑いですね。部屋に行きましょうか。」

 日差しの少ない楓の部屋は幾分か涼しかった。

「同じクラスの××さんはCだったのに……隣のクラスの○○さんはA判定だったのに……先生もC以上じゃないと受からないって……」

 靖子は楓の机の上の消しカスを集める。

 急に楓が息を吹き返したように身を起こす。

「模試、靖子ちゃんのも返ってきたでしょ? 秋のやつ。見せて! 見せなさい! 」

「は、はい……」

 楓は靖子が差し出した駿台模試をふんだくる。

『京都大学 A』

「すごいね、靖子ちゃんは……」

「私なんかが勉強できても意味ないですよ。それよりも楓さんが……楓さんが受からないと私もつらいんです。」

「勉強できても意味無い……? 靖子ちゃんは勉強しかできないのに? 靖子ちゃんが一番それにすがって生きてるのに? 」

「えっ……」

「友達少ないし、仕事も粗相ばっかじゃん。勉強でしか認めてもらえないもんね。」

 二年生になり、幸子と別々のクラスになってから靖子は学校ではいつも一人だった。

 移動教室、一人で廊下を歩いているとき、何人かの同級生と談笑して歩く楓を見たのを思い出した。目が合うと楓はどこか嬉しそうにしているのだった。

 睡眠を削っているからか、仕事でやらかすことも多くなっていた。昨日も味噌汁の入った鍋をひっくり返してしまった。

「……ごめんなさい。それでも私、一生懸命やっているんです。」

 靖子は楓から少し離れて座り、「大学への数学」(青チャートよりもレベルの高い受験直前向けの数学問題集)を取り出す。わら半紙のプリントの裏にすらすらとペンを動かす。

 楓も何かのプリントとノートを取り出し、机に向かった。

 楓がペンの尻でとんとんと机を叩く音が響く。

 楓は椅子を動かして靖子のすぐ横に詰めて座り直した。

「ねぇ、なに。その参考書。青チャート使ってって言ったでしょ?」

「でも、こっちの方が入試に出やすい問題が載ってて……」

「だめ! 私が言った通りに勉強して! じゃなきゃ落ちるよ。絶対、絶対、絶対、絶対! 」

「そんなこと言わないでください! 私は絶対京都大学に受からないといけないんです! 」

「なんで京都大学なの?京大なら私のお父さんがお金出してくれるから?私のことなんてどうでもいいんでしょ!?」

「違います! 私はお金よりも楓さんの方が……」

「お父さん、靖子ちゃんが何かしても絶対怒らない。靖子ちゃんもお父さんに褒められていつも馬鹿みたいに喜んで……靖子ちゃんは私の味方じゃないんでしょ?」

「味方です!楓さんは私の大切な……」

「嘘ばっかり……!私ね、靖子ちゃんのことが心配なんだよ?あなたが調子乗ってるのばればれなんだからね?」

 なぜだか分からない苛立ちと焦りが楓の口を突き動かしていた。

「そんな態度じゃ絶対落ちちゃうからね? 勉強以外できない靖子ちゃんが落ちたら何の価値もないんだよ⁉ 」

 気づくと、靖子の頬に涙が垂れていた。

「……あっ、靖子ちゃん……」

「ご、ごめん……靖子ちゃんのこと、羨ましくて……」

「いえ……私こそ、ごめんなさい。楓さんがいつも優しくしてくれるのに、調子に乗って、困らせるようなことしてしまって……落ちても文句言えないですよね。」

「そ、そんなことないよ。靖子ちゃん、いつも頑張ってる。私は分かってるからね。」

「私、落ちたら高卒なんです。そうなったら誰も私を受け入れてくれない! だから、どうか、私のこと、見捨てないでくださいっ! 」

靖子はついに声をあげて泣き出した。

「靖子ちゃんはちゃんと結果出してるでしょ? 偉いよ。辛かったら休んだ方がいいよ。」

「はい……」

「だからもう、今日は勉強やめとこ? そろそろ晩御飯だし、キッチン行こっか。私も手伝うから。」

「まだ時間あります……!勉強させてください!これで落ちたら……」

 楓は靖子の参考書をごみ箱に捨てた。

「大丈夫。私が靖子ちゃんを合格させてあげる。靖子ちゃんは何も考えないで。」

「私には楓さんしかいないんですね……」

「うん、そうだね。私もだよ。」

 さっきまで散々自分を否定してきた楓の言葉が靖子にとってこの上ない救いに思えた。

 楓も靖子以上に安堵していた。


 それから、靖子は使う参考書も勉強の進め方も全て楓の言う通りにした。参考書の解答も楓に取り上げられた。

 その日は中間試験が返ってきた日だった。

 背の高い幸子が貼り出された成績表を最後方から指差す。

「どうした靖子? 急に順位落ちたやん。ここ最近ずっと調子よかったのに。」

「うーん……なんだろう。化学の△△先生の教え方が悪いんだよ、きっと。」

「あー△△私も嫌い! あいつ宿題多いし。」

「そうだよねぇ。次地理だよ。行こっか。」

 社会科目は幸子と被っていた。談笑しながら歩く二人。階段を上っていると突然、鋭い視線を感じた。

 踊り場には楓がいた。靖子とその隣の幸子を睨み付ける。

「あら、楽しそうだね靖子ちゃん。」

「この人、先輩?」

「う、うん……楓さん、この子は……」

「友達なんかとつるんでていいの? 休み時間だよ? 勉強しなよ。」

幸子が靖子をかばうように立ちふさがる。

「三年生の人? なんですか? 急に偉そうに。」

「どいてよ。靖子ちゃんと話したいの。」

「嫌です。あなたみたいな人に靖子ちゃんと話してほしくないです。」

「うるさいなぁ。ねぇ靖子ちゃん。あなたは私といたいでしょ? こんな馬鹿そうな女、迷惑だよね? 」

 楓と幸子が選択を迫るように靖子を見つめる。靖子は迷わず、楓に視線を送った。

「私は……楓さんの方が……」

「ふぅん。私、先に教室行ってるね。」

 幸子は靖子に見向きもせずに、階段を駆けていった。

「何? 今の女。あんなのといると馬鹿になっちゃうよ。」

「馬鹿……? 何てこと言うんですか、さっきから! 」

 靖子は楓の言うことは何でも聞くようにしていたが、我慢も限界になりつつあった。

「……私のこと嫌い? 学校でも会うの嫌なんでしょ⁉ 」

 楓が迫ってくる。

「そんなこと、無いです……」

 自分勝手すぎる。初めて楓に怒りが芽生えた。

「私じゃだめなの? 靖子ちゃんには必要無いの? もう、私なんかいない方が……」

 靖子は踊り場の端まで追い詰められる。

「……いい加減にして! 私がいないと何もできないくせに! 」

 靖子は楓の肩を掴み、踊り場から突き落とした。

「不安なら私を頼ってください! 楓さんの言うことなら何でも聞きますから……私から離れないでください! 友達より楓さんを選んだんだから、どれだけ大切に思ってるか分かるでしょ⁉ 」

「ごめんね……」

 体を曲げ、髪を乱した楓が目の赤くなった靖子を見上げる。

「今日も一緒に帰りますよ!一人になるなんて、絶対許しませんからね。私なしで生きていけると思わないでくださいね。」

 その日も二人はいつも通り同じ部屋で夜更けまで勉強していた。


 一月、楓は最後の京大模試を終えて学校から帰ってきた。その日は冷たい雨が積もった雪を灰色に染めていた。

 何も言わずに階段を上がっていく楓。靖子は後を付けて楓の部屋をノックした。

 すると、後ろの部屋の扉が開いた。

「靖子ちゃん、こっち。」

 そこは楓の亡き母親の部屋だ。薄暗い部屋に差し込む月の光が楓の居場所を教えた。

「お食事お持ちしましたよ。ここで食べますか?」

「うん。」

 楓は窓際に背を向けてしゃがみ、夜の空をぼんやりと見上げていた。

「寒くないですか?こっちの机で食べましょう。」

「ここがいい。こっち来て。」

 真っ黒な窓に結露した白いもやが楓から生えた羽根のように見えた。今にも窓の外に消えていきそうだった。靖子は仕方なく楓の隣にお盆を持って座った。

「思ったよりはできた。お父さんは……」

「京都大学、出願するんですか?」

「うん。」

「楓さんなら、京大じゃなくても阪大や神大なら簡単に受かるんじゃないですか?」

「えーでも靖子ちゃんは絶対京大行っちゃうじゃん。それにお父さんは京大以外は絶対認めてくれないし。」

「自信、ありますか?」

「無いよー。でも靖子ちゃんと一緒にいたいからさ。落ちて浪人すれば来年も一緒だしね。」

 窓を背にして靖子に向き直る楓。

「……そんな縁起でもない。」

「ふふふ。私と一緒に勉強するのはもういやかな?」

「楓さんはできる人なんです。浪人なんてありえないです。」

「……なんかお母さん思い出すな。楓はできる子だからってよく言ってたの。」

「楓さんのお母様、ですか?」

「うん。死んじゃってから久しぶりに言われたよ。」

「私ね、誰かに甘えないと生きていけないんだよ。おばあちゃんもいなくなった時、ずっと死にそうで。そこに靖子ちゃんが来てくれたの。」

「初めて会ったとき後光がさしてた。絶対逃がしたくない。ずっと一緒にいたいなって思った。」

「私、何もしてあげられてませんよ? 私、いつも楓さんに頼りきりだし……」

「えへへ、お互い様だね。……ごめんね、いつもきつく当たって。私のこと、嫌いにならないでね?離れないで……」

「はい、絶対。……あと一ヶ月ですよ。一緒に頑張りましょうね。」

「うん! こんな田舎出ていこうね! 約束する。靖子ちゃんのこと、絶対京都に連れ出してあげる。」

 お盆の上の蕎麦は伸びきってもなお湯気を上げ続けていた。


 二月、二階の窓を雪が埋め尽くしている。夜中、楓の部屋に足音が近づく。

 楓はドアノブのカチャッという音で目を覚ます。ドアを開けて入ってきたのは靖子だった。

「あれ……?どうしたの、靖子ちゃん?夜食ならもういいって……」

 靖子は寝巻き姿で立ち尽くしていた。

「楓さん……眠れなくて……」

 楓は窓側に詰め、布団をめくる。靖子は楓の隣に飛び込んだ。

 楓の胸に顔をうずめる。

「最近、成績が上がらなくて……。落ちそうで怖いんです。」

「落ちる……?」

「この前の全統模試もだめだったんです。私、仕事もできない、友達もできない、勉強以外何もできないのに……」

 楓は胸が温かくなるのを感じた。寝巻きに靖子の涙が染みている。

「落ちそうなのは私の方だよ……私も最後の模試の判定、Dだったんだ……」

「そんなことないです。そんなの絶対嫌です! 楓さんも私も絶対一緒に京都大学に行くんです……。」

「うん。絶対。でもね、もし私が落ちたらさ、一緒に家出しよ?高卒なんて誰もやとわないかもしれないけど、一緒にいれるでしょ?」

「はい! どこまでもついていきますよ……」

楓は自分の腕を握りしめる靖子の手をそっとさする。

「それでね、絶対ありえないんだけどね。もしも、私が受かった後に靖子ちゃんが落ちちゃったら……」

「嫌だ! そんなこと、絶対に嫌です! 楓さんだけ向こうに行くなんて……」

「うん、だから、その時は一緒に死んであげる。どこにいても、絶対に会って一緒に死ぬの。」

「一緒に死ぬ……」

 靖子の呼吸が落ち着く。一度胸から顔を離すと、両腕で楓に抱きついた。

「落ち着いた? 部屋、戻れそう? 」

 靖子は首を横に振る。

「約束、守ってくださいよ? この前のも。」

「うん。絶対だよ。今日は一緒に寝よっか! 」

 楓も靖子を抱き締める。二人は何かに振り落とされぬよう、互いにしがみつきながら眠りについていた。

 京大の試験はちょうど二週間後だ。


 三月、楓が京都から帰ってきた。

「ただいま! 靖子ちゃん! 」

 試験が近づくにつれ、毎晩靖子に抱きついて泣きじゃくっていた楓だったが、帰ってきた時には案外元気そうだった。

「なんだか楽しそうですね。楓さん。」

「だって、もう勉強しなくていいんだよ! もう今さら何しても変わらないんだから。」

「でも、本当にいいんですか?参考書とか処分しちゃっても。」

 靖子は楓の部屋の前で参考書やノートを縛り、山ほど積み上げていた。

「いいの、いいの。もう終わったの! 二期校も出願してないし。」

「……これは私が貰えばいいですか?」

 靖子は十何冊の赤本を持ち上げた。

「うん! それ使って靖子ちゃんが受かってくれたら嬉しいな。」

 靖子は楓がどこか遠いところに行ってしまった気がした。


 一九七七年(昭和五二年)三月七日。合格発表の日。楓はわざわざ京都まで確認しに行った。

 昼過ぎ、屋敷の電話が鳴る。

 電話口からは「あった! あったよ! 受かってた! 」と楓の上ずった声が聞こえてきた。「よかったです!楓さん!」

 二人の無邪気な声が響く。

 主人や楓本人はたいそう驚いたが、努力をともにしてきた靖子には当然の結果に思えた。

 電話越しに靖子は山の向こうの京都の街を想像していた。


 それから、靖子は春休みの間ずっと楓の引っ越しを手伝っていた。

 楓は「靖子ちゃんはこれから受験でしょ?私に時間割かなくてもいいよ。」と気遣ったが、靖子はどうしても勉強する気分にはなれなかった。

 これで楓と一緒にいられるのが最後になる気がしたからだ。

 四月になる前に楓は逃げるように地元を離れていった。大学近くにアパートを借りたらしい。


 高校が始まった。靖子は楓のあの高い声が聞こえてこないのがとても不思議だった。

 ある日の帰り道。ふと、目の前の田んぼが狭く、電柱が高く思えてきた。なんだか山に挟み込まれそうな、電柱に叩き潰されるような心地だった。

 目の前にも、後ろを振り返っても、手を握りしめても、そこには自分しかいなかった。

 靖子はもう勉強に頼るしかなかった。登下校中は単語帳、熟語帳、例文集を読み込んで身を守った。毎日やらないと忘れるから、と楓から渡された参考書たちだ。

 楓の言い付け通りに勉強し続けた。数学は青チャート。英語は楓の自作問題集。国語は楓のお下がりの基礎問題集。化学は一年時から使った演習問題集。あとは赤本。

 それ以外を使うのは楓への裏切りのように思えてできなかった。違和感は殺していた。

 成績はなぜか上がらない。主人の目が後ろめたくて仕方なかった。


 一月。

 あと一ヶ月で合格する自信は靖子には無かった。ちらつく不合格、押し寄せる孤独に打ち勝つにはとにかく手を動かすしかなかった。

 ある日、靖子は真夜中に赤本の問題解説を見返していた。理解に苦しみ、朦朧とした意識でページをめくる。

 あるページ、特に解答に苦しむ問題の所に書き込みがあった。おそらく前の持ち主が書いたのだろう。

 びっしりと数式が書かれ、消しゴムで消した跡が無数にある。

「ここで代入を試みたのかな。ここでこの法則を使おうとしたんだ。ここで別の解法を思いついて……」

 ページの右下には落書きがあった。一つ結びの女の子。目は点々。矢印で『ないとう靖子』とある。

「ここで解くの諦めたんだ……分かりやすい。」

 靖子は彼女の存在を強く感じた。勉強は靖子が楓と一緒にいるための唯一の手段になった。


  一九七八年(昭和五三年)二月二四日。京大の試験の前日だった。

 楓は京都駅の中央改札口に立っていた。

 電車を見たことも無い靖子はきっと迷うだろうと思っていた。

 待ち合わせの時間から遅れていくほど、心配と同時に安心がこみ上げてくる。

 地元を離れてから楓は少しまともになってしまった。あの頃の自分を思い出すと、靖子が会いに来ないのが自然に思えてくる。

 どこか別の改札から出たのだろうか、と思ったその時。改札の向こうから見慣れた影が手を振って来るのが見えた。

「楓さん! 」

 楓は嬉しかった。愛しさが止まらなかった。今すぐその身に触れに行きたかった。しかし、体は少し後ずさっていた。

 靖子は楓の家に泊まることになっていた。

 京大近くの家まで烏丸通を二人で上っていく。

 立ち並ぶ建物、人通り、大きな川、御所、晴れ渡る冬の空。全てが靖子にとって珍しかったのだろう。

「楓さん! 楓さん! 」

 名前を呼んではしゃいでいた。楓の記憶の中の彼女より一層無邪気だった。しかし、靖子が手をつないできても握り返せなかった。

 四畳半に敷き詰められたピンクのカーペット。窓際に掛けられた露出の多い服。壁に立て掛けられたアコースティックギター。

 下宿先の部屋は屋敷にいた頃よりも派手になっていた。

 その日の夜、二人は久々に同じ布団で寝た。

「約束、覚えていますか?」

 楓が忘れていたかったことだ。少し寒気がした。

「う、うん。あの時もこうやって二人でいたよね。」

「ふふふ。受かったら毎日こうやって過ごせますね。」

「毎日、か。……絶対受かってね。私寂しかったんだから。」

「はい! 受かりますよ! 楓さんは私のこと見捨ててませんから。」

 翌朝、靖子は笑顔で出ていった。楓は靖子から遠ざかっていたいと思っていた自分が恥ずかしくなった。

 靖子がまた京都に来る日が待ち遠しかった。

______________________________________________

試験が終わってから、靖子はいつになく上機嫌だった。

 楓や主人には絶対に受かったと自信満々に言い放っていた。靖子に自信があるわけでは無かったが、そうしないと正気を保てそうになかった。

 その日、靖子は実家に帰っていた。結果は楓が電報で教えてくれることになっていた。

 三年ぶりの実家。玄関に座敷、居間、二階に物置があるだけの寒い家。壁には穴がいくつか増えていた。

 母親は変わらず居間で寝込んでいる。家の畑で虫をばらばらにしていたのは弟と妹だ。靖子の記憶とはかけ離れた二人は知らない人が来たかのように靖子を睨んできた。

 狭い淀んだ川、枯れた白菜の植えたある畑。生まれ育った谷奥の村はついこの前行った京都と比べると、みすぼらしくて仕方なかった。

 あと数日で、こんな所ともおさらばだと思うと気は楽だった。

 家に帰ると、父親が帰宅していた。

「お前、若和泉さんに仕事辞めるいったんだって⁉ 勝手なことしやがって! お前なんか受かるわけないんだから、絶対辞めるな! 」

 玄関に座り込む。

 十時。楓の目の前にはもう番号が貼り出されている頃だ。

 電報は昼過ぎに届いた。

『サクラチル』

 信じたくないことだった。しかし、数日後に送られてきた通知でもうどこにも行けないことが確定したのだった。

 玄関から外に出てみた。

 見渡す限りの山、山、山。人の気配は無い、死んだような黒い山。

 もうあの都には上れない。

「うっ、おぇぇ」

 しゃがみこんで立てない靖子は家の前を汚してしまっていた。

「楓さん……」

 靖子はどうしようもなく楓を求めていた。あの人ならきっと今にも迎えに来てくれるはず、と祈った。

 ふと、手に握った紙に目が行く。電報には続きがあった。

『サクラチル マタアオウネ』

______________________________________________

 一九七九年(昭和五四年)八月、大学の夏休み。楓は村に帰ることにした。

 正直、帰省するのは少し怖かった。

 去年地元に帰らなかったことの言い訳を考えながら、窓の外に広がる田園が住宅街に変わっていくのを見つめていた。

 電車が高校近くの駅に停まる。京都の街に慣れてしまった楓には駅前の街並みが、かつてあれほど鮮やかに見えた街が今はひどく閉鎖的でモノクロに見えた。

 バスを降りて、以前より人気の無くなった農道を歩く。

 目指しているのは楓にとって一番大切な人がいる家。

 彼女は今でも目の前の屋敷で働いている。

 (靖子ちゃんはまた私の名前を呼んでくれるかな。)

 (靖子ちゃんは私との約束を覚えているかな。)

 (私と一緒についてきてくれるかな。)

 楓は階段を上がり、勉強部屋のドアを開けた。

 そこには一人、窓の外を眺める靖子がいた。

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