"よるをてらすほのお"
真っ黒なネイビー色の夜
暗いアパートの一室
パソコンのモニターの中で、浅黒い男が「夜中腹減んないすか」と言っている
時間は深夜、日付の変わる辺り
確かに、烏有もお腹が空いて居た
考えてみれば、18時頃からずっと酒しか口にして居ない
厳密に言えば、水も飲んだし氷も食べたが、それらも言ってみれば酒の構成成分だ
一般的人類の『夕飯』に相当するものを、面倒過ぎて作る事すら出来て居なかった
「…………草でも食うか」
うつろな眼でふらりと立ち上がると、冷蔵庫へ向かう
『草』とは、生野菜の事だ
烏有はカロリーを信仰して居る
生野菜は、彼にとって例外無く単なる『草』だった
野菜室の引き出しを引く
中身はいずれも調味料ばかり
野菜など、買って居ない以上、存在しても居なかった
「…………………」
野菜室を閉じる
今度は冷蔵の扉を開けた
夜の只中で、暗闇の自動販売機のように冷蔵庫が発光する
缶入りのワインと蜂蜜酒が、軍隊のように整列して居る
他にはスーパーの見切り惣菜と、鶏卵1パックが入って居るだけだった
見切り惣菜のパックを手に取る
「食べるか」と、ぼんやり思考する
冷蔵庫で湿りながら劣化した安コロッケのまずさが不意に脳裏を、踏切の先を走る列車のように駆け抜けていった
「…………オーロラソース……?」
顎に手を当てて、この事態を打開出来る勇者の心当たりを検討する
開け続け過ぎた冷蔵庫が、不愉快そうに警告音を出し始める
機械はいつもそうだ
自らは動ぜずして、絶えず人間側に行動を要求する
烏有は酩酊のせいなのか、この夜の中に限っては、それに従いたく無いと思って居た
オーロラソースは美味い
しかし、烏有の想像や記憶の中のオーロラソースは、この絶望を跳ね返す程の力は持って居なかった
「調味料は、まあまあ有るんだよな……」
最早、野菜室まで解き放ち、分析を開始する
『醤油みりんが食べたい』という、漠然とした感覚が在った
「『コロッケ蕎麦』………!?」
「いや、蕎麦が無い………………」
朦朧の中で、救いの蜘蛛の糸をふらふらと探し出すような作業だ
意識すればする程に、空腹という迷宮の奥へと入り込んでしまう
その後、烏有は30分程の思考の格闘の後に、「コロッケを卵とじする」というソリューション、一種の天啓に辿り着いて居た
「なんだ」
「なんなのだ、これは!」
「どうすればいいのだ!?」
コンロのつまみをカチカチ鳴らせど、そこから現れる筈の文明の炎は一向に姿を現さない
「…………Eli, Eli, Lema Sabachthani(神よ、神よ、何故わたしを見捨てたのですか)!?」
恐慌に陥りながら、烏有はコンロのつまみをカチカチする
元栓が空いて居なかった
色々はあったが、かくして卵とじは完成した
調理法としては「卵焼き用のフライパンにコロッケを二個配置し、そこに調味料と溶き卵、玉ねぎを入れて加熱、玉ねぎに火が通ったら出来上がり」というものだ
本来なら白米が必要だったり、あるいは火を通す順番を工夫したり、溶き卵に下味を付ける等も良かったのだろう
しかし、深夜に酔っ払った成人男性には、そんな思考能力は存在して居なかった
むしろ、脳機能がゾンビ並みと仮定するなら、無事故で玉ねぎを切る事が出来たのは奇跡に等しかった
「うわっ、すっごい美味しい……」
深夜に食べる料理はどの道、総て美味しい
加熱した明日からのカロリー管理は、ついに危険な領域に突入して居たが、最早そういう事を考える段階には無かった
何故なら、醤油味で煮込まれたコロッケは玉ねぎの風味も相まって、とても美味しかった
………何かの漏れる音がする
酔いから来る耳鳴りかとも思ったが、そうでは無かった
鼻に『よくない臭い』を感じる
調理後の不始末によるガス漏れだった
「あっ……!!!」
烏有程の人間であっても、有事の際は酔いが覚める事も在る
特に、今が特別そういう瞬間だった
過集中が生み出すスローモーションのような時間の中で、烏有は駆けた
部屋の窓
サッシに飛び付き、鍵を回す
勢い良くレールの上を、サッシを滑らせる
レールから摩擦によって生まれた火花が音を立てて、部屋に幾つも飛び散っていった




