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第5話 地下の灯り

 その夜も、高山透はキーボードを叩いていた。

 六畳一間。

 窓には遮光カーテンを二重に引いてある。蛍光灯は切っていた。作業用のモニターだけが部屋を青白く照らし、積み上げられた段ボール箱の側面に歪んだ光を落としている。

 段ボールの中身は、もう何年も開けていない。

 かつての職場から持ち出した資料。雑誌のバックナンバー。没になった撮影カットのプリント。捨てられなかった。捨てたら、あの時代ごと消えてしまう気がして。

 五十歳。

 元・週間グラビア誌『Fresh・Bomb』編集。

 今は日雇いのバイトで凌いでいる。

 グラビア誌が廃刊になり、肩書きが消えても、仕事は続いている。

 形が変わっただけだ。

 

 画面の左端では、接続経路を多重に偽装するソフトウェアが静かに動いていた。ログは自動で消去される。IPは三十分おきに切り替わる。発信元を特定させない、その一点のためだけに、高山は月に一度、アングラの技術屋に金を払っていた。

 それでも安全とは言えない。

 ド連の監視技術は年々精度を上げている。完全な匿名など、今の世界には存在しない。


──そういえば、と高山は思い出す。

 同じ編集部にいた男のことを。

 最後に会ったのは、規制が本格化する少し前だった。

 小さな居酒屋で、安い酒を飲みながら、そいつは笑っていた。

「どうせすぐ終わるよ、こんなの。雑誌なんて、なくならないって」

 根拠のない楽観だった。だが、そのときは誰も否定できなかった。

 その一ヶ月後、男は出社しなくなった。

 最初は、体調でも崩したのかと思っていた。

 だが、電話は繋がらない。家にもいない。編集部の誰も、理由を知らない。

 ただ一つ、残っていたのは——

 机の上に置きっぱなしだった、未整理のフィルムだけだった。

 撮影中、彼女はずっと笑っていた。

「これ、絶対売れますよ」って。

 三日後、スタジオは閉鎖された。

 彼女の名前を、口にした人間はいない。

 それ以外にも突然消息不明になる人間は何人もいた。

……………

………

(わかってる)


 わかった上でやっている。

 記事の下書きを読み返す。今夜アップする予定のもの——地下で活動するポールダンサーについての短いレポートだ。本名は出せない。写真も、顔が映らないよう加工してある。それでも彼女が「いる」ことは、伝えられる。生きて、踊り続けていることは。

 一日のアクセス数は、多くて三百。

 少ないと思ったことはなかった。かつて月刊誌の編集部にいた頃、発行部数は十五万部あった。それでも届いていると実感できた読者は、ほんの一握りだった。三百の中にも、必ず誰かいる。画面の前で、息を殺して読んでいる人間が。

 一人でも届けばいい。

 そう信じて、指を動かした。

 

 送信ボタンを押した直後、メッセージの着信を告げる小さなアイコンが点滅した。

 見慣れないアドレスだった。

 ド連のおとり捜査は、珍しくない。それも学習していた。手口には傾向がある——距離を詰めるのが早すぎる、文体が妙に整いすぎている、こちらの反応を試すような問いかけが混じる。

 高山は身構えながら、文面を開いた。


□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□

はじめまして。

 あなたのブログを読んでいます。

 私はグラビアアイドルになりたいと思っています。

 力を貸してもらえませんか。

□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□


 短い文章だった。

 読み返す。

 もう一度、読み返す。


(……なんだ、これは)

 

「思っています」という言い回しに迷いの跡がある。何度か書き直した末に、それでもうまくまとまらなくて、諦めて送った——そういう文章だった。

 プロの書く罠にしては、あまりにも不器用だ。

 だが、その不器用さの奥に、妙な熱がある。

 怯えながら、それでも前のめりな。


(……本物か?)


 高山は煙草を一本取り出してから、咥えずに机に置いた。禁煙して三年になる。それでも追い詰まると手が伸びる。今はその癖だけが残っていた。

 返信は、しなかった。

 その夜は。

 

 翌朝、目が覚めた瞬間に、まず確認したのはメッセージ欄だった。

 追加の送信はない。催促もない。

 それも引っかかった。罠なら、もう一押しある。焦らすか、別のアカウントから角度を変えてくる。だが何もなかった。ただ、あの短い文章だけが、昨夜から変わらずそこにある。

 高山は窓のカーテンを少し開け、灰色の朝空を見た。

 規制が本格化した頃のことを、たまに思い出す。

 あの時代にはまだ、抵抗する声が大きかった。出版社が連帯声明を出し、グラビア誌の読者がSNSで署名を集め、弁護士が法廷で戦った。高山も記者会見に出た。マイクの前で「表現の自由を守れ」と叫んだ。


 全部、無駄だった。


 世論はヴェルナの言葉に飲み込まれた。

「女性搾取」

「性的消費」

——切り取られたフレーズが拡散するたびに、こちらの声は掻き消された。仲間は一人ずつ折れ、出版社は幕を下ろし、気づけば高山一人がこの六畳に残っていた。

 それから何年経つだろうか。

 もう数えていない。

 彼は机に戻り、もう一度メッセージを開いた。


─私はグラビアアイドルになりたいと思っています─。


 今の世に、そんなことを望む人間がいるのか?

 規制後に生まれた世代にも——僅かだが失われたものを取り戻したいと思う人間が育っているという話は聞いたことがある。


(ならば……)


 高山はキーボードに手を置いた。

 返信の書き出しを、三回消した。四回目、ようやく指が止まった。


□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□

一つだけ聞かせてください。

 なぜ、グラビアアイドルになりたいのですか。

□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□


 送信する前に、もう一度だけ読んだ。

 罠かもしれない。

 それでも──、それを望んでいる誰かにメッセージが届けばいい、と信じてきたのは自分だ。


 高山は、送信ボタンを押した。


 答え次第で、すべてが変わる気がした。



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