最終章 それぞれの先に
春になると、めぐみは海沿いの町で撮影をすることが多くなった。
理由は特にない。ただ、海が好きだった。開けた場所が好きだった。どこまでも続く水平線を背景に立つと、自分がどこにいるかが、はっきりする気がした。
カメラマンは品川だった。
いつも品川だった。他の人間に撮られることを、めぐみは断ったわけではない。ただ、品川以外の人間に頼む理由が、まだ見つかっていなかった。
砂浜に立って、品川のレンズを向いた。
波の音がした。風が来た。髪が揺れた。
シャッターが切れた。
めぐみがグラビアアイドルとして活動を続けていることを、世間はどう見ているかわからなかった。気にしていなかった、というより——気にすることをやめた。
賛同する人がいる。批判する人がいる。このままでいいと思っている人がいる。変えてほしいと思っている人がいる。
全員が、正しい。
めぐみはそう思うようになっていた。
自由を取り戻す、とは言わなくなった。取り戻すという言葉は、失った人間の言葉だ。めぐみは失っていない。最初から持っていなかった。
代わりに、選べる社会がいい、と言うようになった。
見たい人が見られる。見たくない人は見なくていい。表現したい人が表現できる。したくない人はしなくていい。
強制した規制も、強制した解放も、どちらも違う。
それだけだった。
そのことに気づくまでに、ずいぶん時間がかかった。でも、気づいてからは——ずっと、楽になった。
「もう一枚」
品川が言った。
「はい」
めぐみは波に向かって立った。
カメラを見なかった。
水平線を見た。
シャッターが切れた。
◆
アミの劇場は、駅から十分ほど歩いた場所にある。
定員三十人。古いビルの二階で、エレベーターはない。看板は小さい。派手な宣伝はしない。それでも、毎週末、客が来る。
満員になることは、ほとんどない。
でも、来てくれる人のために踊る。
それだけでいい、とアミは思っている。
地下にいた頃、観客が十人でも踊り続けた。今も同じだ。数が増えたか減ったかではなく、そこに来てくれた人間のために、全力で踊る。それがアミのやり方だった。
最近、若い女の子が見に来るようになった。
規制後に生まれた世代だ。ダンスを習いたい、と言ってくる子もいる。
アミは断らない。
教える、ということを、アミはうまくできるかどうか、まだわからない。でも、一緒にポールを握ることはできる。
踊ることを、誰かに伝えること。
それが今のアミの、次の仕事だと思っていた。
◆
高山の雑誌は、季刊だった。
三ヶ月に一度、出る。一号あたりの部数は少ない。書店に置いてもらえる場所も、限られている。売れ行きは地味だ、と高山自身が言う。
でも、廃刊しない。
創刊から三年、一度も廃刊しなかった。
読者からの手紙が来る。メールではなく、手紙が来ることがある。丁寧な便箋に、丁寧な字で書かれた手紙が。その手紙の送り主は、高山よりずっと年上の人間だったり、めぐみより若い人間だったりする。
どの手紙にも、同じことが書いてある。
届いた、と。
高山は手紙を読むたびに、あの廃刊の夜を思い出す。
蛍光灯が一本切れかけた編集部で、最後の見本誌の余白に、書かずにいられなかった言葉を書いた夜を。
あれから何年経ったか。
数えていない。
ただ、今もキーボードを叩いている。
それだけで、十分だった。
◆
ひとみの店は、今夜も開いている。
階段は十四段。それは変わらない。
客層は変わった。かつての常連たちの中には、もう来なくなった人間もいる。年を取った。体が動かなくなった。別の場所を見つけた。それぞれの理由があった。
代わりに、新しい顔が来るようになった。
夜の世界を知らずに育った人間たちが、ここへ来る。何を求めているか、最初はわからない顔をしている。でも、カウンターに座って、ひとみが注いだ酒を一口飲むと、少し変わる。
肩の力が抜ける。
それだけのことだ。
ひとみはグラスを磨きながら、その変化を見ている。
酒を注ぎながら、話しかけられたら話す。
何も変わっていない。
「椿」のカウンターでやっていたことと、今ここでやっていることは、同じだ。
場所が違う。照明が違う。酒が違う。
でも、カウンターを挟んで誰かがいる、ということは変わらない。
それで十分だと、ひとみは思っている。
今夜も、グラスを光にかざした。
曇りは、なかった。
◆
品川の写真集『等身大』が出たのは、秋だった。
初版は三千部だった。
出版社は小さな独立系の会社だった。大手は全部断った。でも、一軒だけ、引き受けてくれた。編集者は三十代の女性で、めぐみのことを「ずっと追いかけていた」と言った。
書店への配架は、最初は少なかった。
でも、増刷が続いた。
最初の増刷は、一ヶ月後だった。次は二ヶ月後。その次は三ヶ月後。少しずつ、確実に、次の刷りが出た。
売れている、という感触は、品川にはなかった。
でも、続いている、という感触があった。
それで十分だった。
写真集の中に、一枚だけ——品川が最も好きな写真がある。
めぐみが海沿いの町で撮ったものではない。
あの夜、地下のステージで撮った、三枚目の写真だ。
ステージの端で、少し俯いている。カメラを意識していない。内側から何かが滲み出ている、あの一枚。
シャッターを切った瞬間、品川は心の中で呟いた。
(いた。本物が)
その言葉は、写真集には載っていない。
でも、品川にとって、あの写真はいつもその言葉と一緒にある。
◆
圭介は今も大学にいる。
研究室の窓から見える景色は、めぐみと初めて話したあの日と変わっていない。
研究テーマは「規制社会における表現の自由と文化的記憶の継承」だ。長い題名だが、要するに——失われたものを、どう受け渡すか、ということを研究している。
めぐみとは今も連絡を取っている。
先日、めぐみからメッセージが来た。
「インタビューで、また『表現の自由のために』って書かれました。違うって言ったんですけど」
圭介は返信した。
「伝わるまで、言い続けるしかない」
「そうですね」
それだけのやり取りだった。
でも、圭介にはわかっていた。
めぐみが言い続ける限り、いつか誰かに届く。
届いた一人が、また誰かに伝える。
そういうものだ、と圭介は思っている。
◆
ヴェルナ・グロースが代表を退いたのは、翌年の春だった。
理由は「老齢のため」とだけ発表された。
記者会見はなかった。引退の挨拶もなかった。ある日、文書が一枚出て、それで終わりだった。
後任が就いた。
世界は続いた。
引退後の彼女がどこにいるか、誰も知らない。
側近も知らないと言った。知っているとしたら、教えなかった。
ただ——ある日、めぐみの事務所に荷物が届いた。
差出人は書かれていなかった。
中身は、一冊の写真集だった。
品川の『等身大』だった。
購入証明書が同封されていた。書店のレシートだった。身元は特定できなかった。
めぐみはその写真集を受け取って、しばらく持ったまま、立っていた。
表紙を見た。
自分の写真が載っている。あの夜、地下のステージで撮られた、あの一枚が。
誰が送ってきたか、確かめる方法はなかった。
確かめなかった。
確かめなくてもいい、と思った。
ただ、届いた。
それだけで——十分だった。
◆
夜、めぐみは一人でアパートにいた。
ノートを開いた。
最後に書いた一行を読んだ。
それでも、誰かに見てほしいと思う気持ちだけは、消えなかった。
その下に、ペンを走らせた。
古書店でページをめくったあの日から、ずっと、誰かに見てほしかった。
見てほしいと思うことは、罪じゃなかった。
見てほしいと思う人間が、世界のどこかに、いつの時代にも、いた。
それだけのことが——何かを、変えた。
何かは、変わっていない。
それでも、続いていく。
ペンを置いた。
窓を開けた。
夜の空気が入ってきた。
遠くで、誰かが笑う声がした。
どこかの誰かが、夜の中で笑っている。
それだけのことが、めぐみにはなぜか、嬉しかった。
表現の自由は戻った。
でも、失われた時間は戻らない。
溝は、残った。
それでも——誰かに見てほしいと思う気持ちだけは、
どの時代にも、消えなかった。




