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第2話 消えない笑顔

 一週間が経った。

 レポートはとっくに提出していた。

 テーマは

   「旧時代における視覚表現の変遷」

 担当教授に見せた原稿は、教科書の記述を丁寧に引き写したような、どこにも尖った箇所のない文章だった。自分でも読み返す気になれなかった。

 あの古書店から帰った夜、あの雑誌を見たことを思い出していた。

 あのとき、人の気配がしたので、咄嗟に雑誌を棚にもどした。

 罪悪感と好奇心が入り混じった不思議な感覚に囚われた。

 一つ気になっていたのはあの雑誌の最後のページに書かれていたメッセージ。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

これを見つけたあなたへ

 この笑顔が、グラビアがいつか罪だと言われる日が来るかもしれない。

 それでも、どうか忘れないでほしい。

 これは誰かを支配するためじゃなく、

 ただ「生きている」と伝えるために残されたものだ。

 正しいかどうかは、あなたが決めてほしい。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++



 あの文が何度も何度も頭の中をリフレインしていた。

 

 正しいかどうかは……自分で決める……。


         でも、

  水着                本

  の写       ※悪※         当

   真                  に

   は                なの

              か?


(そういえば、今までに何度かビーチに行ったことがあったが一度も水着を着ている人を見たことがない。私も水着を持っていないし、売っている場所も見たことがない。)



 【禁書】のコーナーで手に取った雑誌。

 ページをめくるたびに漂っていた、古い紙とインクの匂い。


 そして──あの笑顔。

 水着の女性が、こちらを真っ直ぐに見ていた。隠すでもなく、恥じるでもなく、ただそこに「在る」という確かさで。あの眩しさは、一週間経っても頭の奥に焼きついたままだった。


(もう、思い出すな。忘れろ)


 自分に言い聞かせるたびに、鮮明になった。

 

 その日の午後、大学の端末室に人影は少なかった。

 講義の合間の中途半端な時間で、窓際の席はほとんど空いている。めぐみは一番奥の端末を選び、周囲を一度確かめてからキーボードに手を置いた。

 検索ボックスに、文字を打ち込む。


「グラビア 水着」


 エンターキーを押した瞬間、画面が赤く染まった。

 警告ウィンドウが全面に展開する。


━━━━⚠ 倫理調整フィルター作動━━━━


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 入力されたキーワードは規制対象ワードリス

トに該当します。

 本操作は学籍番号および端末IDとともに記録

されました。

 問題がなければ続けて作業を行ってください。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 続けて作業を行ってください——その一文が、妙な圧力を持っていた。

「問題がない」と判断するのは、自分ではない。

 めぐみは素早く画面を閉じ、無関係な資料検索のページを開いた。手のひらに、薄く汗をかいていた。


(監視されてる……当たり前か)


 当たり前だ、と思う。生まれたときからそうだった。「倫理フィルター」は空気のようなもので、普段は気にすることもない。鍵のかかった扉が視界に入らないように、規制されているものは最初から存在しないものとして処理される。

 だから今まで気にしたことがなかった。

 扉の向こうに、何があるかを知るまでは。

 

 キャンパスの通路に出ると、夕方の光が斜めに差し込んでいた。


「相澤さん」


 名前を呼ばれて振り返ると、見覚えのある顔があった。

 桐島圭介。文化研究科の院生で、めぐみが所属するゼミに時折顔を出す先輩だ。二十八歳。落ち着いた物腰で、声を荒げているところを見たことがない。ゼミでの発言はいつも論理的で、教授に食ってかかることもある。

ただし、めぐみとは今まで二言三言交わした程度だった。

「先週のレポート」と、圭介は言った。「表面しか書いてなかったね」

 責めているわけではなさそうだった。それがかえって、不安を煽る。


「……どういう意味ですか」


「そのまんまの意味だよ。教科書の引き写しでもできるのに、あなたは自分で資料を探し回ってた。図書館も、古書店も」


 足が止まる。


「なんで……」

「報告が来たわけじゃない」


 圭介は小声になった。周囲を一度見回してから、めぐみの横に並んで歩き始める。


「あの店の主人とはね、ちょっとした知り合いに長い付き合いの人間がいる。あなたが何を手に取ったか、具体的には聞いてない。でも——」


 彼はめぐみをちらりと見た。


「何かを見てしまった人間の顔をしてる、あなたは」


 めぐみは返す言葉を失った。

 否定するべきか。しかし何を否定すれば正解なのかわからない。知らないふりをするべきか。ただそれもどこかで嘘になる気がした。

 一週間、引きずってきたものが、この男には見えている。


「……何が言いたいんですか」

「急かしてるわけじゃない」圭介は前を向いたまま言った。「ただ、もし、何か感じたことがあるなら——その感覚を、一人で抱えていなくていいよということだけ」


 通路の突き当たりに、講義棟の扉が見えた。

圭介は立ち止まった。


「俺のゼミ室は、三号館の四階だ。火曜の夜は大抵いる。来るも来ないも、あなたが決めていい」


 それだけ言って、彼は別の方向へ歩いていった。

 めぐみはしばらく、その背中を見ていた。

 何かを感じた人間の顔をしてる。


──そんなに、顔に出ていたのか。


 自分では気づいていなかった。一週間、普通にしていたつもりだった。授業に出て、食堂で昼を食べて、夜は何事もなかったように眠った。

 でも。

 あの女性の笑顔は消えなかった。

 あのメモの文字も消えなかった。


 正しいかどうかは、あなたが決めてほしい。

 めぐみは手のひらを見た。端末のキーボードを叩いた手。警告ウィンドウが出た瞬間、反射的に閉じた手。


(私は、何を怖がっているんだろう)


 答えは出なかった。

 ただ——火曜の夜まで、あと四日あると、頭の片隅で数えていた。

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