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第17話 鏡の中の他人

 報告書は、朝の七時に届いた。

 ヴェルナ・グロースは執務室の窓に背を向けて、デスクに座っていた。昨夜から、ここを離れていない。ソファで二時間ほど目を閉じたが、眠ったとは言えなかった。

 報告書を開いた。

 氏名、相澤めぐみ。年齢、二十二。大学名、学部、学籍番号。家族構成——父、母、本人の三人。父は地方公務員、母はパート勤務。特筆すべき思想的背景なし。交友関係——大学のゼミを中心とした、ごく普通の人間関係。学業成績は平均をやや上回る程度。

 どこにでもいる、大学生だった。

 ヴェルナは感情を持たない目で読んだ。いつものように。氏名も、年齢も、家族構成も、ただの記号として処理した。長年の習慣だった。記号として処理する限り、迷いは生じない。

 報告書の末尾に、情報部が回収した投稿文の全文が記載されていた。

 ヴェルナは読んだ。


これは誰かを支配するためじゃなく、

ただ「生きている」と伝えるために。 


 手が、止まった。

 止まった、と自分でわかった。

 それが珍しかった。この仕事を何十年とやってきて、報告書を読みながら手が止まることは、ほとんどなかった。あったとしても、それは重大な情報に対する反応であって——こんな、十数文字の言葉で止まることは、なかった。

 ヴェルナは報告書をデスクに置いた。

 窓の外、朝の街が動き始めていた。整然とした街だ。通勤の人々が歩いている。信号が変わる。車が流れる。何も乱れていない。

ただ、生きていると伝えるために。

 その言葉を、頭の中で繰り返した。

 なぜ引っかかるのか。

 ヴェルナは自分に問いかけた。脅威として分析するなら、答えは簡単だ。規制対象コンテンツを、感情的な言葉で包んで拡散した。それだけのことだ。この種の手口は、過去にもあった。「表現の自由」「生きる権利」——耳に心地よいフレーズで、人々の判断を曇らせる。対処は難しくない。

 だが、引っかかりはそこにない。

 手口への引っかかりではない。

 言葉への引っかかりだった。

 

ただ、生きていると伝えるために。

 ヴェルナはデスクの上で、手を組んだ。

 あの校庭裏のことを、考えないようにしていた。何十年も、考えないようにしてきた。考える必要がなかった。あの記憶は、ヴェルナにとって動機であり、燃料だった。燃やし続けるものであって、分析するものではなかった。

 だが今朝は——その記憶が、違う角度から浮かんだ。

 放課後の校庭裏。誰もいない場所を選んで、彼を呼んだ。手紙を書いた。何度も書き直した。言葉を選んだ。送った。

 あのとき、自分は何をしようとしていたのか。

 愛の告白。そう名付けていた。でも、今朝この言葉を読んで、別の答えが浮かんだ。

見てほしかっただけではなかったか。

私はここにいる。私は存在している。それを、誰かに確かめてほしかっただけではなかったか。

 ヴェルナは目を閉じた。

 あの手紙に、何を書いたか。好きだという言葉より先に、自分のことを書いた気がした。バレーボールが好きなこと。本を読むこと。雨の日の窓が好きなこと。誰にも言っていないことを、あの手紙に書いた。

 見てほしかった。

 自分がそこにいることを、確かめてほしかった。

 そして——かつてグラビア雑誌に写真を載せていた女たちも、同じことを言っていたのではないか。

 見てほしい。生きていると伝えたい。それだけだ、と。

 ヴェルナは目を開けた。

 その考えを、打ち消そうとした。

 打ち消せなかった。

 

 端末を開いた。

 昨夜入手した三枚の写真を、もう一度開いた。

 一枚目。

 ステージの上で、真っ直ぐにレンズを向いている。笑っていない。作っていない。ただそこに在る、という強さがあった。

 ヴェルナは「処理」しようとした。規制対象コンテンツとして、記号として処理しようとした。

 できなかった。

 そこに、人間がいた。

 二枚目。

 二人がポールを握って向かい合っている。モノクロだった。光が、二人の輪郭を鮮明に切り取っていた。

 ヴェルナは長年、規制対象のコンテンツを処理してきた。写真も、映像も、雑誌も。何万点と目を通してきた。だが今この瞬間、気づいた。それは「見た」のではなかった。「処理した」のだ。記号として通過させてきただけだ。

 三枚目。

 ヴェルナの手が止まった。

 ステージの端で、少し俯いている。カメラを意識していない。その不意の瞬間に、表情の奥から何かが滲み出ていた。

 ヴェルナはこの写真を、昨夜も長く見た。今朝も、長く見た。

 なぜこれが引っかかるのか、ようやく少しだけわかった気がした。

 この女の子は、カメラを見ていない。

 誰かに向けて笑っているのでも、ポーズを取っているのでもない。

 ただ——そこにいる。

 そこにいながら、何かを思っている。

 その瞬間を、誰かが切り取った。

 見てほしかったのではなく、見られていた。その違いが、この写真にあった。

 ヴェルナはしばらく、画面を見ていた。

 

 立ち上がった。

 執務室の奥、壁際に古い棚がある。普段はほとんど近づかない棚だ。書類が並んでいるように見えるが、一番下に引き出しがある。

 鍵がかかっている。

 ヴェルナは鍵を取り出した。

 何年ぶりかわからない。開ける度に、年数を忘れる。それだけ間が空いているということだ。

 鍵を入れた。回した。引き出しが開いた。

 中に、古い封筒が一つだけ入っていた。

 取り出した。

 封筒の口を開けて、中身を出した。

 一枚の写真だった。

 モノクロではなく、色があった。でも色が褪せていた。印画紙が少し黄ばんでいた。

 若い頃の自分だった。

 整形の前。告白の前。全てが始まる前の——まだ何者でもなかった頃の、ヴェルナ・グロースがそこにいた。

 笑っていた。

 ぎこちない笑顔だった。どこかの屋外で、誰かに撮ってもらったものだろうが、誰に撮ってもらったかを覚えていない。どこで撮ったかも覚えていない。ただ、その頃の自分が、そこにいた。

 ヴェルナは写真を持ったまま、立っていた。

 この頃の自分は——何かを伝えようとしていたか。

 見てほしかったか。

 そこにいることを、誰かに確かめてほしかったか。

 答えは、出てきた。

 すぐに出てきた。

 だから——打ち消すのが難しかった。

 

 ヴェルナは写真を封筒に戻した。

 引き出しに入れた。鍵をかけた。

 棚から離れ、デスクに戻った。

 椅子に座って、手を組んだ。

 インターフォンを押した。

「はい」

「入れ」

 部下が入ってきた。昨夜から担当している男だ。

「相澤めぐみの監視を継続しろ。接触している人間を全て特定しろ」

「はい。逮捕状の準備を——」

「まだいい」

 部下が少し顔を上げた。戸惑いが表情に出ていた。

 ヴェルナはそれを見て、何も言わなかった。自分がいつもと違う、とこの部下が感じているのはわかった。いつものヴェルナなら、もう動いているはずだと思っているのだろう。

「一つだけ変える」

「はい」

「この件は、最終的に私が直接話を聞く。逮捕ではなく、尋問だ。私が、直接」

「……了解しました」

「もう一つ」

「はい」

「投稿文を全文、紙に出力して持ってこい」

 部下はまた少し間を置いてから、「はい」と言って下がった。

 ヴェルナは一人になった。

 

 数分後、部下が紙を一枚持ってきた。

 受け取った。

 部下が出ていった。

 ヴェルナは紙を見た。


これは誰かを支配するためじゃなく、

ただ「生きている」と伝えるために。


 この言葉を書いたのは、誰か。

 相澤めぐみではない。投稿文として使われたが、原典が別にある、と情報部の分析が示唆していた。誰かが書いて、誰かが受け取って、それが今、世界に出た。

 誰かが、誰かに届けようとした言葉。

 ヴェルナは紙をデスクの上に置いた。

 重ねて置いた、報告書の上に。

 押しつけるように。

 

 端末の画面に、まだ三枚目の写真が開いていた。

 カーソルを動かした。

 閉じるボタンに重ねた。

 止まった。

 しばらく、そのままにした。

 窓の外で、朝の街が動いていた。整然として、秩序があって、清潔だった。

 ヴェルナが作った世界だった。

 正しいと、長年言い続けてきた。

 信じているか。

 答えは、ある。

 ある——はずだ。

 ただ、今朝はその答えが出てくるまでに、少しだけ時間がかかった。

 それだけのことだ。

 それだけのことの——はずだ。

 ヴェルナは写真を閉じた。

 端末を伏せた。

 仕事を再開した。

 次の報告書を開いた。

 いつものように、感情を持たない目で、読み始めた。

 

 ただ。

 デスクの上に置いた、あの一枚の紙だけは——片付けなかった。

 ヴェルナ自身、それに気づいていたかどうか、わからない。

 ただ、仕事を続ける間中、その紙は、デスクの端に、あり続けた。

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