第16話 波紋と影
閉店後のひとみの店は、静かだった。
客はいない。灯りは最小限に落としてある。カウンターの奥、裸電球が一つだけ点いていて、六人の顔を下から照らしていた。
めぐみ、桐島、高山、品川、ひとみ、アミ。
全員が、テーブルの上のノートパソコンを囲んでいた。
「一度だけ出す」
高山が言った。
「反応を見る。それから判断する。いいな」
誰も反論しなかった。
桐島がキーボードを叩きながら説明した。
「複数の匿名アカウントを用意した。投稿は同時に、四つのプラットフォームから行う。一つが削除されても、別が残る。拡散してしまえば、もう止められない」
「写真は三枚だ」
品川が言った。
全員が品川を見た。品川はテーブルの上に、プリントを三枚、並べた。
一枚目。めぐみの単独カット。ステージの上で、スポットライトを受けて立っている。ブルーのビキニ。顔は真っ直ぐにレンズを向いている。笑っていない。でも、暗くもない。ただそこに在る、という強さがあった。
二枚目。アミとのツーショット。ポールを二人で握って、向かい合っている。モノクロだった。光と影が、二人の輪郭を鮮明に切り取っていた。
三枚目。
誰も、しばらく何も言わなかった。
めぐみ自身も、この一枚を初めて見た。
ステージの端に立っている。カメラを見ていない。少し俯いて、何かを考えているような——それでも、表情の奥に何かが滲み出ている写真だった。品川が、めぐみが気づいていない瞬間に切ったものだとわかった。
「これが一番、本物だ」
品川は静かに言った。
ひとみがカウンターの中から言った。
「決めるのは、めぐみちゃんよ」
全員の視線が、めぐみに向いた。
めぐみはプリントを三枚、順番に見た。
一枚目。二枚目。三枚目。
自分の写真を見るのは、不思議な感覚だった。知っている顔なのに、知らない顔に見えた。普段、鏡で見ている自分とは違う。あの古書店でページをめくったとき、水着の女性がこちらを見て笑っていた——あのときの衝撃を、今度は自分が誰かに与えるかもしれない。
「出します」
めぐみは言った。
「全部」
桐島が頷いた。キーボードに手を置いた。
「送信は、めぐみさんが押してくれ」
めぐみは椅子を引き寄せて、パソコンの前に座った。
画面に、四つの投稿画面が並んでいた。写真はすでにアップロードされている。文章も入力してある。桐島が書いた文章だった。
めぐみは読んだ。
これは誰かを支配するためじゃなく、
ただ「生きている」と伝えるために。
高山のメモの言葉だった。
めぐみは桐島を見た。桐島は頷いた。
めぐみはエンターキーに指を置いた。
一秒だけ、止まった。
あの古書店の埃っぽい空気を思い出した。警告ウィンドウが出た端末の画面を思い出した。公園のベンチで缶コーヒーを渡してきた高山の手を思い出した。ひとみが光にかざしたグラスを思い出した。
押した。
部屋が静かになった。
誰も何も言わない。
画面の中で、数字が動き始めた。
ゼロ。一。三。七。
アミが小さく息を飲んだ。
十五。二十八。五十一。
高山はパソコンの画面を見たまま、腕を組んだ。
百。百三十二。二百。
品川は何も言わなかった。ただ、画面を見ていた。
三百。五百。
一時間で、千を超えた。
◆
某国首都。高層ビルの最上階。
ヴェルナ・グロースは、その夜も遅くまで執務室にいた。
習慣だった。夜の静けさの中で、一日の報告書を読む。世界のどこかで何かが動いていないか。倫理調整フィルターがどこかで引っかかっていないか。数字と文字の羅列を、彼女は感情を持たない目で読む。
部下が入ってきた。
「失礼します。今夜の報告です」
「話せ」
「アングラの動きが、やや活発化しています。特定の人物を中心に、複数の関係者が接触を開始しているようで——」
ヴェルナは部下を見なかった。報告書のページをめくりながら聞いた。
「名前は」
「相澤めぐみ。二十二歳。大学生です」
ヴェルナは手を止めた。
止めた、とわかるほどには止めなかった。ほんの一瞬、ページをめくる動作が遅くなった。それだけだった。
「写真は」
「まだ入手できていません。地下ネットを経由しているようですが、経路が複雑で特定に時間がかかっています」
「急がなくていい」
ヴェルナは言った。
「表に出た瞬間に、対処すればいい」
「はい」
「下がれ」
部下が出ていった。
ヴェルナは一人になった。
相澤めぐみ。
その名前を、もう一度、頭の中で繰り返した。
規制後に生まれた世代が、この世界に抗おうとしている——それは想定の範囲内だった。いつか出てくる、とヴェルナは思っていた。歴史は必ず抵抗を生む。抵抗が生まれれば、潰す。それだけだ。
だが。
引っかかりが、あった。
何かが、胸の奥で小さく引っかかっていた。
それが何かを、ヴェルナは言葉にできなかった。規制後に生まれた世代が、失われたものを取り戻そうとしている——そのこと自体は、脅威として処理すればいい。感情を持つ必要はない。
それでも、引っかかる。
ヴェルナは立ち上がって、窓の前に立った。
夜の街が広がっている。整然としている。秩序がある。ネオンのない夜は、静かで、清潔だ。これが正しい世界の姿だと、ヴェルナは長年そう言い続けてきた。
信じているか。
自分に問いかけることを、もうずっとしていなかった。
問いかける必要がないから、していないのか。
それとも——
遠い昔の校庭裏を、一瞬だけ思い出した。
放課後の、誰もいない場所。自分が何かを伝えようとして、跳ね返されたあの瞬間。
ヴェルナはその記憶を、いつものように打ち消した。
手慣れた動作で。
深夜、端末がアラートを発した。
画面に赤い警告が広がった。
⚠ 倫理調整フィルター 緊急アラート
規制対象コンテンツの大量拡散を検知
発信源:複数プラットフォーム同時投稿
匿名性:高
拡散速度:通常の十四倍
担当者からの緊急連絡が続いた。
「削除対応を開始しますか」
ヴェルナは少し間を置いた。
「削除しろ」
「はい」
「ただし」
ヴェルナは付け加えた。
「発信者の特定を最優先にしろ。削除は後でもできる。コンテンツを消しても、人間は残る。人間を特定すれば、どこへ逃げても見つけられる」
「了解しました」
「写真を入手しろ。中身を見る」
「はい、至急」
ヴェルナは端末を閉じた。
窓の外、夜の街はまだ静かに見えた。
でも、その地下のどこかで、今夜、何かが動いた。
ヴェルナにはわかった。長年この仕事をしてきた勘が、そう言っていた。
これは、いつもの小さな抵抗とは違う。
◆
ひとみの店の中で、画面の数字は止まらなかった。
三千。五千。
削除通知が来た。桐島が確認した。
「一番目のアカウントが落とされた」
「他は」めぐみが聞いた。
「まだ三つ生きてる。それに——」
桐島は画面を見た。
「もう拡散してる。スクリーンショットが回り始めてる。削除しても、もう止められない」
高山が言った。
「もう止められない」
その言葉が、静かに部屋に広がった。
アミが笑った。
泣きそうな顔で、笑った。
「……あれは、私たちが奪われた踊りだ。あんな格好で堂々と——これは私たちの勝利そのもの」
声が少し震えていた。
ひとみはグラスを磨く手を止めて、画面を見た。何も言わなかった。でも、目が潤んでいた。それをグラスに視線を戻すことで、隠した。
品川は画面を見ていた。
コメントが流れてくる。
「誰これ? すごい」
「こんな写真まだあるんだ」
「感動した……泣いてる」
「規制されてから生まれた世代? なのにこんな写真が?」
「消えないうちに保存した」
品川は読んだ。
ただ、読んだ。
めぐみもコメントを読んでいた。
流れてくる言葉の中に、賛同がある。感動がある。驚きがある。
そして——批判も、あった。
「こんなものを出すな。時代錯誤だ」
「恥ずかしい。女性の尊厳を何だと思っている」
「今の社会を乱すな。私たちには関係ない」
めぐみは目を逸らさなかった。
一つ一つ、読んだ。
批判する人間がいる。このままでいいと思っている人間がいる。規制された世界で、不自由を感じていない人間がいる。
わかっていた、はずだった。
でも、こうして文字になって流れてくると——実感として届いた。
表現の自由を取り戻したいと思っているのは、全員ではない。
当たり前のことが、今夜、初めて腹の底に落ちた。
「めぐみさん」
圭介が静かに言った。
「大丈夫か」
「はい」
めぐみは答えた。
「大丈夫です。ただ——」
画面を見たまま、続けた。
「このままでいいっていう人たちのことも、間違いだとは思えない。それが、今夜わかりました」
桐島は何も言わなかった。
高山も言わなかった。
品川が、ゆっくりと口を開いた。
「正しいかどうかは、あなたが決めてほしい」
めぐみはその言葉を聞いた瞬間、息が止まった。
高山が書いた、あのメモの言葉だった。
品川は続けた。
「全員に届かなくていい。一人に届けばいい。それだけだ」
めぐみは頷いた。
頷きながら、画面の数字を見た。
一万を超えていた。
削除されながら、それでも広がり続けていた。
ヴェルナの端末に、写真データが届いたのは、夜明け前だった。
担当者が添付したファイルを開いた。
三枚。
一枚目。ステージに立つ若い女性。スポットライトの下、真っ直ぐにレンズを向いている。
ヴェルナは見た。
二枚目。二人の女性がポールを握って向かい合っている。モノクロだった。
ヴェルナは見た。
三枚目。
ヴェルナの手が、止まった。
ステージの端に立っている女性が、少し俯いている。何かを考えているような——それでも、表情の奥に何かが滲み出ている写真だった。
ヴェルナはしばらく、その写真を見ていた。
窓の外で、夜がわずかに白み始めていた。
担当者から連絡が来た。
「発信者の特定が進んでいます。相澤めぐみ、大学生、二十二歳。現住所の特定まで、もう少し時間をいただければ——」
「急がなくていい」
ヴェルナは言った。
三度目だった。今夜、「急がなくていい」と言うのが。
担当者は少し戸惑ったようだったが、「はい」と答えて切った。
ヴェルナは三枚目の写真を、もう一度見た。
引っかかりの正体が、まだわからない。
でも、それが何かを探ろうとする気持ちも——今夜は、珍しく、打ち消さなかった。
窓の外で、夜明けが来ていた。




