第15話 夏の残像 ―元グラビアアイドル彩花の邂逅―
植木に水をやりながら、ふと思い出すことがある。
たいていは、何でもない瞬間だ。
朝の台所で湯を沸かしているとき。スーパーの駐車場で買い物袋を持ち替えるとき。テレビの音が遠くに聞こえているとき。そういう、何も起きていない時間の隙間に、あの頃が浮かんでくる。
消えない。二十五年経っても、消えない。
山本彩花、四十四歳。
今は地方都市の小さな会社で、週四日、事務のパートをしている。夫は取引先の営業マンだった。二十四のときに結婚して、今年で二十年になる。子どもが一人いる。
普通の、どこにでもある暮らしだ。
それで十分だと、思っている。
たぶん。
あれは十九の夏だった。
渋谷のセンター街を、駅の方へ歩いていた。特に用事はなかった。友人との待ち合わせまで時間があって、ぶらぶらしていただけだ。
声をかけられた。
「君、スタイル良いね。モデルさん?」
二十代後半くらいの男だった。清潔感はあった。怪しい感じはしなかった。でも、こういう声かけには慣れていた。流して立ち去ればよかった。
「モデルではないですよ」
そう言って歩こうとしたら、また声がかかった。
「君いくつ?」
「十九です」
「凄いスタイルだね。何かやってたの?」
スタイルが良いと言われることに、嫌な気持ちはなかった。むしろ少しだけ、嬉しかった。あの頃の自分に、正直に言えば。
「高校までバレーボールやってました」
「え、バレー? 俺も高校までバレー部だったよ」
それで、足が止まった。
男は宇田川という名前だった。二十六歳。神奈川出身で、実家は武蔵中原だと言った。高校時代は県大会でベスト3に入ったと言って、今も社会人サークルでバレーを続けていると言った。
バレーの話をする人間に、彩花は弱かった。
あの頃は特に。
宇田川は話の流れで、唐突に言った。
「グラビアアイドルやってみない? スタイルも良いし、絶対売れると思う。やるやらないは別として、一度撮影を見学してみない?」
どこかに電話をした。手際が良かった。
彩花は断るべきだった。でも、断らなかった。
興味がなかったわけではない。そういう業界の存在は知っていたし、雑誌でグラビアページを見たことも当然あった。見学だけなら、と思った。それだけだ。
軽い気持ちで、ついていった。
連れていかれたのは、雑居ビルの三階だった。
フロア全体が撮影スタジオになっていた。照明機材、背景紙、レフ板。数人のスタッフが動いていて、その中央に、水着を着た女性がいた。
彩花は初めて、グラビアアイドルを間近で見た。
同じ女性なのに、何かが違った。
スタイルだけではなかった。身体から何かが溢れていた。色気とか、存在感とか、そういう言葉では足りない。ただそこにいるだけで、空気が変わる。そういう人間を、彩花は初めて目の前で見た。
撮影が終わりかけた頃だった。
一人の男が、彩花の方へ歩いてきた。
カメラを持っていた。スタッフの一人だと思っていたが、近づいてくるのは彩花に向かってだとわかってから、少し戸惑った。
男は彩花の前で立ち止まった。
そして——何も言わずに、目を見た。
じっと、見た。
秒数で言えば、たいしたことはない。でも彩花には、ひどく長く感じた。何を見ているのかわからなかった。値踏みでも、好奇心でもなかった。もっと深いところを掘ろうとしているような目だった。
やがて、男は言った。
「……ほんの少し、陰がある。そこを引き出したい」
品川、という名前だと後から聞いた。
グラビアアイドル専属のカメラマンだと言った。
陰。
その言葉を聞いた瞬間、彩花の胸の奥に、何かが刺さった。
高校二年の夏。インターハイを目前にした、あの日のことを思い出した。
中学からバレーボールを始めた。好きだったというより、やめられなかった。コートの中にいると、自分が自分でいられる気がした。高校でレギュラーを取って、インターハイに出場しようとしていた、あの夏。
膝が、壊れた。
医者からドクターストップがかかった。そのまま、選手生命が終わった。
大学はバレーの強い学校に行くつもりだった。それも消えた。高校を卒業して、スポーツに関わる仕事がしたくて、公認スポーツ栄養士の資格を取ろうと決めた。それが、あの時点での彩花の計画だった。
品川の言葉が、その傷を見つけた。
本人に言うつもりもなく、誰かに話したこともなかった、その痛みを。
この男は、初対面で、それを見た。
グラビアをやろうと決めたのは、わりと軽い気持ちだった。
正直に言えば、バイト感覚に近かった。学費の足しになれば、くらいの。もちろん、品川の言葉も頭にあった。自分の中にある陰を、写真で引き出す、という言葉が。
でも最初から深刻に考えていたわけではなかった。
ただ、自分で決めた。それだけは確かだった。
誰かに強制されたわけでも、騙されたわけでも、お金に困っていたわけでもない。あの世界に入ったのは、私自身の意志だった。
それからの数年は、本当に楽しかった。
バレーボールをやっていたことで、身体の扱い方を知っていた。鍛えられた身体と、スポーツで培った反射神経が、撮影の現場で生きた。イベントに何百人ものファンが来てくれたこともあった。年間グラビア大賞の銀賞を取ったときは自分でも驚いた。
初めて写真集が出たとき、書店に並んでいるのを見て、泣きそうになった。
撮ってくれたのは、品川だった。
あの日、スタジオで目を見つめてきた男。陰を引き出したいと言った男。その男が、彩花の最初の写真集を撮った。
撮影中、品川は多くを語らなかった。でも、シャッターを切る瞬間に、何かが起きた。彩花には説明できない。ただ、ファインダーの向こうにいる品川が何かを見ていて、こちらもそれに応えようとする。そういう瞬間があった。
写真集は八十万部売れた。
あの頃が、彩花にとって一番、自分が自分であると感じられた時間だった。
その頃、ドウトク秩序連合という名前を、テレビで聞いた。
始めは女性の権利向上、というフレーズが繰り返されていた。正直、最初は他人事だった。育休が取りやすくなるとか、女性が管理職になりやすくなるとか、そういう話だろうと思っていた。自分とは関係のない話だと。
それが変わったのは、SNSが広まってからだった。
「女性搾取」という言葉が、突然、彩花の目の前に現れるようになった。
グラビアアイドルの写真は女性を消費している、という意見が拡散された。
彩花は、最初は意味がわからなかった。
搾取?
誰が、誰を?
あのスタジオにいた間、彩花は一度も搾取されていると感じたことがなかった。強制されたことも、騙されたことも、嫌なことを無理やりやらされたことも、ない。スタッフはプロフェッショナルで、礼儀正しかった。品川は寡黙だったが、だからこそ信頼できた。
自分で選んで、自分でやっていた。それだけだった。
周りの女の子たちも、似たような感じだった。
でも、世論はそうは見なかった。
見えないところで何かが積み重なって、気づいたときには規制対象になっていた。
逮捕されたのは、ある夜だった。
自宅に来た。バッジをつけた男たちが。
十日間、勾留された。
保釈金は二百万円だった。親に借りた。
事務所はすでに営業停止になっていた。
大学も、退学せざるを得なかった。
前科がついた人間を、あの大学は置いておけなかった。それは仕方がないと、今でも思っている。恨んではいない。
ただ——あの世界が、終わった。
戻る場所がなかった。
実家に帰った。
地元の小さな会社の事務パートに就いた。
二十四のとき、取引先の営業マンと結婚した。
そして今に至る。
彩花はジョウロを置いた。
手を拭きながら、庭を見た。
夫が休日に手入れした花壇に、小さな花が咲いていた。名前は覚えていない。夫の方が詳しい。
後悔しているか、と聞かれれば、答えは出ない。
グラビアをやったことは、後悔していない。断言できる。
あの写真集が八十万部売れたとき、彩花は確かに何かを伝えられたと思った。見てほしかった。生きていると伝えたかった。それができた、という実感が、今も消えていない。
ただ。
品川が引き出した、あの陰の正体を——彩花は今でも、自分では言葉にできない。
バレーボールの膝の怪我だと思っていた。でも、本当にそれだけだったのか。もっと深いところに、何かがあったのか。
写真の中の自分を見ると、たまに思う。
あの表情は、自分でも作れなかった。
品川が引き出したものだった。
あの男は、自分でも気づいていなかったものを、一枚の写真に閉じ込めた。
台所に入ると、夫がコーヒーを淹れていた。
「できたよ」
「ありがとう」
カップを受け取って、テーブルに座った。
普通の、どこにでもある朝だった。
それで十分だと、思っている。
たぶん、これからも。
ただ——窓の外を見るとき、ふと思う。
今の世界のどこかに、写真を撮られようとしている誰かがいるかもしれない。
規制されたこの世界で、それでも、見てほしいと思っている誰かが。
その人に、届けばいい。
あの頃の自分の写真が、どこかの誰かに。
品川が引き出した、あの陰が。
庭の花が、朝の光を受けて揺れていた。
程なくして彼女は相澤めぐみのことを知る。
ネットに流れためぐみのグラビアを見たとき、あのときの感情が蘇った。
自分の写真なのに、自分ではないように見えた、あの感覚。
画面の中の彼女もまた、どこか——自分の外側に立っているように見えた。
そして、彩花は思う。
これは、あの人が撮った写真だと。
断言できるわけではない。
けれど、そうとしか思えなかった。
似ているのは、顔でも身体でもない。
もっと奥にある、言葉にならない何かだった。
グラビアアイドルがあった時代にグラビアアイドルだった彩花と、グラビアアイドルという職業が無い時代にそれになることを決めた者。
直接、会うことはないだろう。
言葉を交わすことも、きっとない。
それでも、彩花はその名前を、しばらく忘れられなかった。




