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第14話 撮影

 高山からめぐみにメッセージが届いたのは、火曜の夜だった。


◯月◯日

16時

廃墟になった繁華街の壱番ビル地下

一人で来い


 それだけだった。

 めぐみはスマートフォンを持ったまま、しばらく画面を見た。

 壱番ビル地下。

 その文字を見た瞬間、何かが記憶の奥から浮かんだ。

 薄暗い階段。裸電球を和紙で包んだ灯り。そして——ステージに立つ女の姿。

 アミ。

 桐島に連れて行かれたあの夜、めぐみはアミのパフォーマンスを見た。しなやかで、鍛え抜かれた身体。薄暗い中で、それでも確かに発光しているような存在感。

 あの場所に、また行く。

 今度は一人で。

 

 当日、めぐみは指定された時間より十分早く着いた。

 繁華街の裏路地に入ると、かつてネオンサインが並んでいたであろう建物の残骸が続いていた。錆びたシャッター、割れたガラス、読めなくなった看板。人通りはほとんどない。昼間でも薄暗いような路地だった。

 壱番ビルはすぐにわかった。

 外壁が剥落して、コンクリートがむき出しになっている。一階の入り口は板で塞がれていたが、脇に細い通路があって、地下へ続く階段が見えた。

 めぐみは階段を降りた。

 一段、二段、三段——。

 下から、低い音が聞こえてきた。音楽ではない。換気扇の唸りと、誰かが動く気配だった。

 扉の前に立った。

 ノックした。

 内側から鍵が外れる音がして、扉が開いた。

 

 高山だった。

「来たか」

「はい」

 中に入ると、ひとみの店より広かった。天井が高く、正面にステージがある。照明は最小限で、ステージの上だけスポットライトが落ちていた。

 ステージの端に、アミが座っていた。

 そして——もう一人。

 五十がらみの男が、ステージ脇の暗がりに立っていた。カメラバッグを肩にかけて、腕を組んでいた。こちらを見ていた。

 高山がめぐみの横に立った。

「紹介する。品川達也。カメラマンだ」

 めぐみは頭を下げた。

「相澤めぐみです」

 品川は頷いた。それだけだった。

 次に高山が、ステージの方へ視線を向けた。

「アミのことは、前に一度来たことがあるから知ってるか」

「はい」

 アミが立ち上がって、ステージから降りてきた。

「覚えてる。桐島さんと一緒に来た子でしょ」

「あのときは、ほとんど話せなかったので」

「そうね」アミは少し笑った。「今日はちゃんと話しましょ」

 

 品川は会話に加わらなかった。

 ただ、めぐみを見ていた。

 高山とアミが言葉を交わす中、品川はその場から動かず、腕を組んだまま、めぐみを観察し続けた。値踏みではない。計測でもない。もっと原始的な、動物的な何かだった。

 やがて品川がめぐみの前に歩いてきた。

 一メートルほどの距離で立ち止まった。

 そして——めぐみの目を、じっと見た。

 何も言わない。笑わない。ただ見る。

 二秒。三秒。四秒。

 めぐみは目を逸らさなかった。逸らせなかった、というより——逸らしたくなかった。この男の目の奥に、何かがある。品定めではなく、もっと深いところを見ようとしている目だった。

 五秒。六秒。

 品川の目が、わずかに変わった。

 それだけだった。

 品川は一歩引いて、高山の方を向いた。

「着替えはどこだ」

「ステージ裏に用意してある」

 品川はめぐみを見た。

「着替えてきてくれ」

 

 品川は一人、ステージ脇に戻った。

 バッグを下ろして、カメラボディを取り出した。

 レンズを装着しながら、頭の中に別の顔が浮かんだ。

 彩花。

 あれは規制が本格化し始めた頃だった。まだ撮影ができた、最後の時期の一人だった。

 十九歳だった。少女とも、大人の女性とも言い切れない年齢。あどけなさと、背伸びして大人を見せようとする部分が、表情の中に混在していた。スポーツをやっていたとわかる体つきで、笑うと底がなかった。何かに気づいたように表情が変わる瞬間があって、品川はそこを狙い続けた。

 だが品川が本当に引き出したかったのは、笑顔ではなかった。

 彩花の中に、ほんの少しだけ、影があった。

 何かを抱えている。言葉にする必要はない。それが何かを知る必要もない。ただ、そこにあるということが、写真に奥行きをもたらす。光だけでは人は動かない。陰があるから、光が生きる。

 品川はそれを引き出した。

 彩花の一st写真集は八十万部売れた。

 あの子が持っていたのは、場を支配する力だった。

 グラビアアイドルに必要なものを、品川は長年かけて自分なりに定義してきた。胸の大きさでも、顔の造形でも、スタイルでもない。もちろん、それらは個性の一つではある。否定しない。だが、決定的なものではない。


 決定的なものは——場を支配する力だ。


 ただ写真を撮られるだけなら、誰でもできる。レンズの前に立って、笑って、ポーズを取る。それは誰にでもできる。

 だが、場を支配できる人間は、カメラのレンズ越しに何かを焼きつける。見る者の目に、皮膚に、記憶に。品川はその瞬間のためだけにシャッターを切り続けてきた。

 そのためのきっかけは、品川が与えることができる。

 だが、場を支配する力そのものは——本人が生まれ持つものだ。

 

 彩花は、その後、逮捕された。

 保釈金が払われたとき、事務所はすでに営業停止に追い込まれていた。彼女は実家に戻ったと、風の噂で聞いた。

 それ以来、品川はシャッターを切っていない。

 

 めぐみがステージに上がってきた。

 ブルーのビキニだった。

 品川はファインダーを覗かなかった。まず、裸眼で見た。

 めぐみがステージの中央に立った瞬間——品川は見た。

 オーラ、と世間では呼ぶ。

 品川はそれを、生命エネルギーだと思っている。誰にでもある。人間が生きている限り、何らかの形で発散される。だが、ある人間はそれを無意識に制御する。場に合わせて、必要な量を、必要な方向へ向ける。

 めぐみがステージに立った瞬間、それが溢れ出した。

 制御ではなかった。溢れ出した、という方が正確だった。

 まだ経験がない。技術もない。作り方を知らない。それなのに——出た。

 役割を理解した人間がステージに立つと、こうなる。自分がここで何をすべきかを、身体が知っている人間は、意識せずにそれをやる。

 品川はカメラを構えた。

 

「顔を少し上げて」

 品川の声は、現場に戻った声だった。

 めぐみは上げた。

「右肩を少し落とす」

 落とした。

「そのまま、こちらを見て」

 めぐみの目が、レンズを真っ直ぐに捉えた。

 シャッターを切った。

 切りながら、品川は感じた。

 この子は、彩花とは違う。

 彩花は煌びやかだった。光に満ちていた。だが、どこかで守られていた。事務所があり、スタイリストがいて、マネージャーがいた。そういう環境の中で、彩花は輝いた。

 めぐみは違う。

 規制後に生まれて、グラビアという職業が存在しない世界しか知らない。事務所もない。スタイリストもいない。守ってくれる組織もない。そういう状況で、それでもここに立っている。

 強い芯がある。

 だが、同時に——危うさがある。

 今の体制への不安が、どこかに潜んでいる。それを押し込めて、ここに立っている。その緊張と、それを超えようとする意志が、表情の奥に見えた。

 品川はそこを狙った。

 笑顔ではなく、その奥にあるものを。

 

「少し休んでくれ」

 数十枚撮ったところで、品川は言った。

 めぐみは頷いた。息が少し乱れていた。緊張からではなく、集中から来る消耗だった。

 品川はアミの方を向いた。

「一緒に入ってもらえるか」

 アミは少し驚いた顔をした。

「私も?」

「お願いしたい」

 アミはめぐみを見た。めぐみはアミを見た。

 二人の間で、何かが確認されたように品川には見えた。言葉ではない。でも、確かにそこにあった。

 アミがステージに上がった。

 ポールの前に立った。

 品川は二人に言った。

「ポールをそれぞれ握ってくれ。向かい合って。顔を少し上げて、目線は少し下げる」

 二人が動いた。

 ポールを中心にして、向かい合う。指先が革に触れる。顔が上がる。目線が落ちる。

 品川はカメラをモノクロに切り替えた。

 ステージの上からスポットライトが落ちていた。二人の輪郭が、光と影で切り取られた。

 ファインダーを覗いた。

 そこに——二人がいた。

 規制後に生まれて、踊ることをやめなかった女。

 規制後に生まれて、見せることを求め始めた女。

 どちらも誰にも教わっていない。それでも、やらずにいられなかった。

 その二人が、同じポールを握って、同じ光の中に立っている。

 品川の頭の中で、高山のメモの文字が浮かんだ。

 これは誰かを支配するためじゃなく、ただ「生きている」と伝えるために——

 その瞬間、めぐみの表情が変わった。

 作ったのではない。何かが解けた、という感じだった。それまで奥に押し込められていたものが、表に出てきた。陰が、光になった。

 品川はシャッターを切り続けた。

 連続して、音もなく、切り続けた。

(いた)

 品川は心の中で呟いた。

(本物が)

 

 撮影が終わったのは、二時間後だった。

 めぐみがステージから降りてきた。

 品川はカメラを下ろして、めぐみを見た。

「一つだけ聞く」

「はい」

「この写真を、どうしたい」

 めぐみは一瞬も迷わなかった。

「世の中に出します」

 品川は何も言わなかった。

 高山が壁際で腕を組んだまま、こちらを見ていた。アミがポールに寄りかかって、二人のやり取りを見ていた。

 品川はカメラをバッグにしまった。

 バックルを留めた。

 立ち上がって、めぐみを見た。

「わかった」

 それだけ言った。

 それだけで、十分だった。

 

 地下を出て、品川は一人で夜の路地を歩いた。

 手に、カメラバッグの重みがある。

 久しぶりの重みだった。

 何年も部屋の隅に置いていたものが、今夜は違う重さを持っていた。中にフィルムが入っている。シャッターを切った記録が入っている。

 彩花の写真集を撮ったとき、品川は確信した。この子は場を支配できると。

 めぐみにも、同じ確信があった。

 だが、彩花とは違う種類の確信だった。

 彩花は守られた環境で輝いた。めぐみは何もない場所から自分で立った。その違いが、写真に出る。必ず出る。

 規制された世界で、それでも生きていると伝えようとする人間の写真は——守られた世界で撮られた写真とは、根本が違う。

 品川は足を止めた。

 路地の先に、かつてネオンがあった場所が見えた。今は暗い。何もない。

 でも、地下には灯りがある。

 アミが踊っている。めぐみが立った。高山が書き続けている。ひとみが酒を注いでいる。

 点と点が、今夜、一枚の写真になった。

 品川はバッグを肩にかけ直した。

 また歩き始めた。

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