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第12話 再開と交差、そしてシャッターの向こう

 品川が指定した場所は、川沿いの古い堤防だった。

 待ち合わせは夕方の五時。高山が先に着いて、コンクリートの縁に腰を下ろして待った。川幅は広くない。対岸に古いマンションが並んでいて、窓に夕暮れの光が反射している。風が来るたびに、水の匂いがした。

 遠くから、人影が歩いてきた。

 高山は立ち上がった。

 思っていたより、老けていた。

 白髪が増えた。顔に刻まれた線が深くなった。姿勢は変わらず真っ直ぐだったが、歩き方がどこかゆっくりになった。そして——手ぶらだった。

 かつては現場に行くにも、打ち合わせに行くにも、必ず機材バッグを提げていた男だった。肩から斜めにかけた黒いバッグが、品川達也のトレードマークだった。それが今日は、何もない。両手が空いたまま、堤防を歩いてくる。

 その手ぶらの姿だけで、この十数年がわかった気がした。

 品川は高山の前に立った。

「久しぶりだな」

 それだけ言った。

 握手もしない。笑わない。感傷的な言葉もない。変わっていなかった。この男は昔から、再会を大げさに扱わなかった。現場でも、締め切り前の修羅場でも、いつも必要なことしか言わなかった。それが高山には、ずっと心地よかった。

「久しぶりだ」

 高山も、それだけ答えた。

 

 二人は並んで堤防を歩き始めた。

 最初はしばらく、何も言わなかった。川が右手に流れていく。対岸の窓の光が少しずつ増えていく。どこかで鳥が鳴いた。

「ブログ、読んでる」

 品川が先に口を開いた。

「知ってたのか」

「文体でわかる」

 高山は少し笑った。笑ったのが久しぶりな気がした。

「続けてるんだな」品川は川を見たまま言った。「アクセスはどのくらいだ」

「多くて三百」

「少ないな」

「少なくない」

 品川は何も言わなかった。否定も肯定もしなかった。それが、同意の代わりだと高山にはわかった。

「あなたは今、どうしてる」

 高山が聞いた。

 品川はしばらく黙った。一歩、二歩、三歩。川沿いに続くコンクリートを踏みながら、どこから話すか考えているようだった。

「機材はある」

 やがて言った。

「捨てられなかった。処分しようと思ったことは何度もある。でも、できなかった」

「撮っているのか」

 ......

「ほとんど撮っていない」

 また、間があった。

「地下ネットに何枚か流したことがある。二年ほど前だ。でも、それも止まっている」

「なぜ」

 品川は足を止めた。

 川を見た。水面が、夕暮れの残照を受けて鈍く光っていた。

「撮る意味がわからなくなった」

 静かな言葉だった。

 高山は何も言わなかった。その答えが、この男の現在地のすべてだとわかったから。反論する必要も、慰める必要も、何もなかった。ただ、そうか、と思った。

 そうか。

 あの品川達也が——撮る意味を見失っている。

 

 二人はまた歩き始めた。

 夕暮れが少しずつ濃くなっていく。川風が冷たくなってきた。高山はコートの前を合わせた。

「話がある」

 高山が言った。

「聞く」

「一人の女の子のことだ」

 品川は何も言わなかった。先を促す代わりに、歩き続けた。

 高山は話し始めた。

 相澤めぐみのこと。大学のレポートで古書店を回っていたこと。禁書コーナーで古い雑誌を手に取ったこと。

 そして——最後のページのメモのことを。

「あのメモを書いたのは、俺だ」

 品川が、初めて高山の方を見た。

「廃刊が決まった夜、一人で編集部に残っていた。あの見本誌の、最後のページの余白に書いた。誰かに届くとは思っていなかった。届いてほしいとも、正直、信じきれていなかった。それでも書かずにいられなかった」

 品川は視線を川に戻した。

「それが届いたのか」

「届いた。二十年以上の時間を越えて。規制後に生まれた、二十二歳の女の子に」

 水の音だけがしばらく続いた。

「その子は」品川が言った。「何者だ」

「大学生だ。グラビアを見たことがなかった。生まれたときから規制された世界しか知らない。それなのに——あの雑誌を見て、グラビアアイドルになりたいと言い出した」

「規制後の世代か」

「そうだ」

「なぜそんなことを」

「会って聞いた」

 品川の歩き方が、わずかに変わった気がした。気のせいかもしれない。でも高山には、この男の細かい変化を読む習慣が染み付いていた。撮影前の品川の集中の仕方、シャッターを切る直前の呼吸の変化——そういうものを、長年見てきた。

「どんな目だった」

 品川が聞いた。

 高山は少し考えた。

「怖がっているのに、怖がっていない目だった」

 品川は何も言わなかった。

 堤防の先に、古い橋が見えてきた。橋の上を、自転車が一台、音もなく通り過ぎた。

 

「断る理由を言っていいか」

 橋の手前で、品川が立ち止まった。

「聞く」

「俺は今、撮る意味がわからないと言った。それは本当のことだ」

 品川は川を見たまま言った。声に感情がなかった。事実を述べているだけの声だった。

「意味がわからないまま撮っても、何も引き出せない。俺の写真は、俺が信じているときにしか機能しない。技術の問題じゃない。どれだけ構図が正確でも、光の計算が合っていても——俺がそこに何かを信じていなければ、ただの記録にしかならない」

 高山は黙って聞いた。

「今の俺には、その信念がない。だから引き受けられない。その子に失礼になる」

 反論はしなかった。

 品川の言っていることは正しかった。あの男の写真が特別だったのは、技術だけではなかった。品川がレンズを向けるとき、そこには何か——見えないものへの確信のようなものがあった。女の子も気が付いていない彼女達の奥底の部分を見抜くのが非常に長けていた。それがフィルムに焼き付いていた。それが失われた写真は、品川の写真ではない。

 高山はわかっていた。

 だから、別の手を使うことにした。

 

 ジャケットの内ポケットに手を入れた。

 折りたたんだ紙を一枚、取り出した。

 品川に差し出した。

「これを見てから、判断してくれ」

 品川は受け取った。

 広げた。

 手書きの文字だった。高山が、めぐみのメッセージを書き写したものだった。印刷ではなく、ペンで、一語一語。

 品川は声に出さずに読んだ。

 川の音がした。風が来て、紙の端が少し揺れた。

 品川は読み終えても、紙を下ろさなかった。

 もう一度、読んでいた。

 高山は何も言わなかった。

 橋の上をまた誰かが通った。今度は歩いていた。足音が、少しずつ遠くなっていった。

「規制後に生まれた子が」品川がゆっくりと言った。「これを書いたのか」

「そうだ」

「あの雑誌を、見ただけで」

「そうだ」

 また沈黙があった。

 品川は川を見た。空を見た。また紙を見た。

 高山は待った。

 品川が紙を折りたたんだ。高山に返そうとした。

 高山は手を出さなかった。

「持っていてくれ」

 品川は一瞬だけ止まった。それから、何も言わずに紙をジャケットのポケットにしまった。

 

 堤防の端まで歩いて、行き止まりになった。

 フェンスがあって、その向こうは草むらになっていた。二人は並んで川を見た。

 夕暮れはとっくに終わっていた。空が紺色になっている。川の水面が、街の灯りを受けて揺れていた。

「返事は、もう少し待ってくれ」

 品川が言った。

「わかった」

「一つだけ聞く」

 品川は川を見たまま言った。高山の方を向かなかった。

「その子は、なぜグラビアアイドルになりたいのか。本当の理由を」

 高山は少し考えた。

 公園のベンチで、めぐみが言った言葉を思い出した。缶コーヒーを両手で持って、真っ直ぐこちらを見ていた。怖いと言いながら、目が怖がっていなかった。

「やらずにいられないからだ、と言っていた」

 品川は何も言わなかった。

 川を見ていた。

 風が来て、水面が細かく揺れた。

「そうか」

 それだけ言って、品川は踵を返した。

 来た方向へ、一人で歩き始めた。

 高山は見送った。

 品川の背中が遠くなっていく。手ぶらのまま。街の灯りが少しずつ増えて、川沿いの暗がりの中に、その輪郭が溶け込んでいく。

 やがて、品川はポケットに手を入れた。

 あの紙に触れているのか。

 それとも、ただの癖なのか。

 この距離では、判断できなかった。

 

 品川の姿が見えなくなってから、高山はしばらくそこに立っていた。

 川が流れていた。どこまでも、淡々と。

 返事が来るかどうか、わからない。

 あの男が「もう少し待ってくれ」と言うとき——昔から、それは完全な拒絶ではなかった。即答しない男だった。でも、答えを出すときは必ず出した。どんな現場でも、どんな条件でも、一度引き受けると決めたら最後まで撮り続けた。

 あとは、品川の中で何かが動くかどうかだ。

 高山にはもう、できることがない。

(やらずにいられないからだ)

 自分がめぐみから受け取った言葉を、今日、品川に渡した。

 それが正しかったかどうか、まだわからない。

 でも——あの紙を折りたたんだとき、品川の手が一瞬だけ止まった。

 それだけは、確かに見た。

 高山はコートの襟を立てて、堤防を歩き始めた。

 川の灯りが、足元に揺れていた。

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