第11話 見えない糸を手繰る
十日間、何もなかった。
端末を開く。メッセージはない。閉じる。また開く。やはりない。閉じる。その繰り返しが、一日に何度あったか数えることをやめた。
催促はできない。
アングラのネットワークでは、急かすという行為が「信用できない人間」の証になる。待てない人間は、焦って足がつく。焦って口を滑らせる。待てる人間だけが、この世界で長く生き残る。高山はそれを身体で知っていた。知った上で、待った。
その間も、ブログの更新は続けた。
地下で活動するポールダンサーの短いレポート。アングラの映像グループが密かに公開した旧時代の映画についての考察。どれも短く、どれも慎重に。日常を崩さないことが、一つの偽装だった。
ただ、キーボードを叩きながら、頭の別の場所では常に品川のことを考えていた。
品川達也。
最後に会ったのは、規制が本格化する少し前だった。廃刊が決まった後、編集部の人間が散り散りになる中で、品川は何も言わずに機材をまとめて出ていった。引き止めなかった。引き止める言葉がなかった。あの男は言葉より先に体が動くタイプで、こちらが何か言うより前に、もう次のことを考えていた。
今、どこにいるのか。
どんな顔をしているのか。
まだ、カメラを持っているのか。
十一日目の夜、吉沢から短いメッセージが届いた。
繋いだ。
相手の名前は「ノリコ」。
これ以上は俺は関与しない。
高山は画面を見つめた。
吉沢はここで手を引く。それがルールだ。中継した人間は、その先に責任を負わない。繋いだことで自分のリスクは終わり、次は当事者同士が判断する。
翌朝、見知らぬアドレスから一通届いた。
吉沢さんから聞きました。
品川さんのことを探しているそうで。
一度、話せますか。
直接会いたい。
場所はこちらで決めます。
高山はすぐに返信しなかった。
一晩、置いた。
翌朝、改めて文面を読んだ。「連絡先を教える」ではなく「話せますか」という言い方をしている。品川を渡すのではなく、まずこちらを見定めようとしている。慎重な人間の文面だった。慎重であることは、品川を守ろうとしているということでもある。
高山は返信した。
会います。
場所はそちらに任せます。
指定されたのは、下町の古い喫茶店だった。
昼間の、人通りの多い時間帯だった。目立たない裏路地ではなく、あえて表通りに面した場所。それも一種の安全策だと、高山にはわかった。人目のある場所では、不審な動きができない。お互いにとって、そういう意味があった。
店に入ると、奥の席に女が一人いた。
五十代だろう。地味なカーディガン。薄い化粧。どこにでもいる、目立たない女性だった。だが高山が向かいに座った瞬間、目が合って——鋭いと思った。
品定めではなかった。
測っている目だった。
「あなたが高山さんですね」
確認ではなく、確信の言い方だった。
「週刊Fresh・Bombの、編集だった」
「そうです」
ノリコはコーヒーカップを両手で包んで、しばらく何も言わなかった。高山も急がなかった。この間合いを乱してはいけないとわかった。
「品川さんは今、あまり人と会いたがらない」
「知っています」
「なぜ探しているんですか」
高山は一度、間を置いた。
どこまで話すべきか——一瞬だけ考えた。だがこの女性は品川を守るためにここに座っている。その誠実さには、同じ誠実さで返すべきだという気がした。
話した。
古い雑誌のこと。廃刊の夜、編集部に一人残って、最後の見本誌の余白に書いたメモのこと。誰かに届くとは思っていなかったこと。それが二十年以上の時間を越えて、規制後に生まれた若い女性に届いたこと。
その女性がグラビアアイドルになりたいと言っていること。
話している間、ノリコはカップを持つ手を机に置いて、ただ聞いていた。目を逸らさなかった。
「その子は、本物ですか」
話し終えると、ノリコが聞いた。
「本物だと思います」
「根拠は」
「会いました。直接。目を見ました」
ノリコはしばらく黙った。窓の外を、一度だけ見た。通りを歩く人が流れていく。誰も、この席の二人には関心がない。
「品川さんに伝えてみます」
静かに言った。
「返事が来るかどうかはわかりません。来ない可能性の方が高い。それでもいいですか」
「構いません」
「一週間、待てますか」
「待てます」
ノリコはコーヒーの最後の一口を飲んだ。カップを置いて、少しだけ間を空けてから言った。
「一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなたはなぜ、まだやっているんですか。ブログを。危険なのに」
高山は少し考えた。
言い訳になる言葉は、いくつか浮かんだ。信念のため。表現の自由のため。そういう言葉は、嘘ではないが、全部ではない。
「書かずにいられないからです」
ノリコは何も言わなかった。
だが、目が、ほんの少し緩んだ気がした。
◆
高山が水面下で動いていた、ちょうどその頃。
相澤めぐみは、いつも通りの夜を過ごしていた。
大学から帰って、コンビニで買った弁当を食べて、シャワーを浴びた。それだけの、何でもない夜だった。
だが、布団に入っても眠れなかった。
端末を確認する。高山からのメッセージはない。圭介からもない。ひとみからも。
何も動いていない。
自分には何もできないということが、この一週間でよくわかった。高山が誰かと連絡を取っている。その途中経過は知らされない。知らされるべきでもない。ただ、待つだけだ。
待つことが、こんなに難しいとは思っていなかった。
めぐみは起き上がって、机の引き出しからノートを取り出した。普段は授業のメモに使っているものだ。白いページを開いた。
ペンを持った。
書き始めた。
なぜグラビアアイドルになりたいのか。
高山に聞かれたとき、答えた言葉を書いた。ひとみに話したことを書いた。古書店で感じたこと。あのメモを読んだ瞬間のこと。圭介に「顔に出てる」と言われた夜のこと。
書いていくうちに気づいた。
自分の言葉が、まだ足りていない。
高山に「それで十分だ」と言ってもらった。ひとみには「やるなら応援する」と言ってもらった。でも、それは誰かに認めてもらった言葉であって、自分の中から出てきた言葉ではない気がした。
本当のことを、まだ言葉にしていない。
めぐみはペンを走らせ続けた。
うまくなくていい。誰かに見せるものじゃない。ただ書く。書きながら探す。自分が何をしたいのか、何のためにやるのか。
気づくと、一時間が過ぎていた。
ノートには、ぎっしりと文字が埋まっていた。
読み返した。
まだ足りない。でも、行きとは少し違う場所にいる気がした。
めぐみはノートを閉じて、また布団に入った。
今夜も眠れないかもしれない。
でも、それでいいと思った。
◆
ノリコと会ってから、六日が経った。
高山はいつも通り、深夜に地下ブログの更新を終えた。記事を送信して、接続を切って、端末をスリープにしかけた、そのときだった。
メッセージの着信が、画面の端に浮かんだ。
見知らぬアドレスだった。
本文を開いた。
高山か。
久しぶりだな。
会おう。
三行だけだった。
高山は画面を見つめた。
長い間、見つめた。
品川達也。
あの男の文章だと、すぐにわかった。挨拶もない。近況もない。謝罪も、感傷も、余分な一語も、何もない。ただ「会おう」だけ。昔から、そういう男だった。撮影現場でも、打ち合わせでも、必要なことしか言わなかった。沈黙を埋めようとしなかった。それが高山には、ずっと心地よかった。
煙草を一本、取り出した。
今夜だけは、火をつけた。
一口吸って、深く息を吐いた。煙が、モニターの青白い光の中に広がった。
キーボードに手を置いた。
返信を打った。
ああ。
会おう。
送信した。
煙草を灰皿で押しつぶして、高山は椅子の背もたれに深く預けた。
天井を見た。
品川。
あの男は今も、カメラを持っているだろうか。
きっと持っている。あの男からカメラを取ったら、何も残らない。それくらいのことは、一緒に仕事をした人間ならわかる。
高山は立ち上がって、段ボール箱を開けた。
写真のプリントを一枚、取り出した。
品川が撮ったものだった。笑顔だった。ただの笑顔ではない。その奥に何かがある。この人間がなぜここに立っているのか。何を思っているのか。それが一枚の紙の中に、静かに閉じ込められていた。
相澤めぐみに、これが必要だ。
この目が、必要だ。
高山は写真を丁寧に戻して、段ボールを閉じた。
窓の外が、うっすらと白み始めていた。
夜明けが来ていた。




