乱心①
日向守が死んだ。
沼津藩第五代藩主、水野忠幹が亡くなった。美しい若者で、思慮深く、才覚に富んだ人物であった。しかも、歌道など、諸芸にも通じていた。英名の誉の高い藩主として、周囲の期待を一身に集めていたが、早過ぎる死であった。
この為、世継ぎがいなかった。忠幹の唯一と言える悪行は、後継者として弟の忠恒を指名したことであっただろう。
優秀な兄がいた反動だったのかもしれない。忠恒は若くして酒色にふけり、時に気がふれたかのように弓を射たり、鉄砲を撃ったりすることがあったという。短気な若者だった。
とにかく評判の悪い、この若者に定子が嫁ぐことになった。
「御典医として玄真殿をお付けください」
この頃、平九郎は好色な医者と入れ替わっており、大垣藩の御典医となっていた。
町娘として生きていたが、近所に住む町医者が診察を偽って若い女子に悪さをするという噂を聞いた。そこで、町医者のもとに乗り込んで、着物を脱ぎ捨てると、術を使うまでもなく、玄真という町医者は涎を垂らしてむしゃぶりついて来た。やがて、女子と入れ替わったと知り、おたおたする町医者を家から叩き出してやった。いたずらされる身になれば良い。
その後、玄真は町医者として評判を上げ、大垣藩に招かれることになった。
たまたま定子を診る機会があり、女子の心が理解できると好まれ、定子付きの御典医となった。当然だろう。平九郎は女として過ごして来た時間が長かった。しかも、戦場での経験が豊富であったから、刀傷や槍傷などの金創医としても優秀だった。
御典医として、十分、やって行ける素養があった。
定子が大垣藩主であった養父、戸田氏長に請い、平九郎は定子と共に沼津藩の江戸屋敷に移ることになった。
「あの方が怖いのです」と定子が言う。
昨夜、婚儀が整い、床入りを迎えたのだが、突如、忠恒は定子に対して怒りを爆発させた。
「そなたの父君も叔父御も礼を知らぬ。行いを正せ、家臣の言うことを聞け、藩主としての自覚が足りぬと、やかましく言う。仮にも水野家を継いだ身。そなたと夫婦になったとは言え、最低限の礼儀は必要であろう。そなたも、そなただ。私のことを、何と告げたのだ!」
定子の養父にして兄である戸田氏長とその弟、戸田氏房が忠恒の不行跡を聞き及んで意見をしたようだ。定子の嫁入りにより縁続きとなった。武家にとって、婚家の不祥事は他人事ではないのだ。忠恒が何かしでかせば、戸田家とて連座して罪を得ることになる。
「何も申してはおりませぬ」と定子は言ったのだが、忠恒は聞かなかった。散々、定子を罵ると、部屋から出て行ってしまった。そして、その夜は、寝所に戻って来なかった。どうやら、遊郭に馴染みの芸者を尋ねたようだった。
「戦国の世なれば、殿様のようなお方が家を継ぐことはございませんでした」
平九郎は定子に同情した。器量は十人前だが、気の優しい娘だ。深窓の姫君であり、苦労は似合わない。武家の娘に生まれなければ、忠恒のような出来損ないと夫婦になることなど無かっただろうにと思うと、定子が可哀そうになった。
むしゃくしゃする。こういう宮仕えは性に合わない。平九郎のような戦人には、太平の世は居場所がなかった。
庭に出て木刀を振るった。
背後から気配を感じて振り返ると、「何者だ!」と若い男に怒鳴られた。
「これは、これは――」
慌てて平伏する。
水野忠恒だった。
「何者だと聞いておる」
「はっ! 定子様付きの典医を勤めます玄真と申します」
「金創医か。金創医が何故に木刀を振るっておる」
お前のことで頭を悩ませる定子を見ているとむしゃくしゃして気を紛らわす為に木刀を振るっている――とは言えない。
「典医も体力が必要ですから」と答えておいた。
「気に入らぬな・・・」
「・・・」
厄介な相手に絡まれたようだ。
忠恒は庭に降りて来ると、「そこに立っておれ。鉄砲の的にしてやろう」と言って、にやりと笑った。
「鉄砲の的に。なるほど。武士たるもの、武芸に励むのは日々の勤め。大変、結構。ただ、黙って的になるのでは稽古になりますまい。手向かいいたす」
「何⁉」
「この木刀で結構。心配めさるな。骨など折れるかもしれませぬが、命までは取りませぬ」
平九郎はすっと木刀を構えた。
「左様なこと・・・許されると思うか・・・」
「武芸の稽古でござる。怪我はつきもの。それがし、金創医でござる。ご希望なら、手当をして進ぜましょう」
「ふ、ふざけおって・・・」
忠恒はギリギリと歯ぎしりをする。
平九郎が畳みかける。「隼人正殿。いい加減、眼をお覚ましなされ。さようなことでは、御上に領地を取り上げられ、改易となるやもしれませぬぞ。そうなればご先祖様に会わす顔がございますまい。家臣の言に耳を傾け、藩主としての務めを果たしなされ。世に英邁な藩主は多ござる。叔父御である戸田氏房殿は性格、温厚にして、文武に秀でた立派なお方。手本になされよ。そして、少しは定子様を安心させてあげなされ」
「私に説教をするか・・・」
「言っても無駄でございますか。では、討ち合うことにいたしましょう。鉄砲でも、真剣でも構いませぬ。早う、手になされ」
「うむむ・・・」
酒色に溺れ、日頃、剣術に打ち込んだことなどないのだ。忠恒は「覚えておれ!」と言い捨てると、平九郎の前から逃げ去った。




